演繹の射程

 寒い日が続いている。室温は同じでも、寒い日の方がより寒く感じるのは何故だろうなどと考えながら、自堕落に暮らしているのである。本来怠け者なので通常進行といえばそれで済むのだが、仕事は山積している。外で何か始めるとすぐにやって来て見張りをするジョウビタキが、窓のすぐ側までやって来て中をのぞいている。外に出て働けといわれているような気がしないでもないが、薪ストーブの前でうつらうつらと過ごす退職後の生活も捨て難い。この寒波が終わったら、分けてもらった30トンほどの梨の木の、運搬と薪作りをする予定である。2年乾かして再来年の冬に焚くのだから気の長い話である。その頃まで生きとるかどうかわからんぞと茶々がはいる。あんたが柿の苗木を植えるのよりまだましやと答える。そうだ、山の栗の木が、ゴマダラカミキリとシロスジカミキリの食害でほぼ全滅に近い。寒い間に新しい苗木を植えねばならない。栗なら長くて3年、大苗を植えれば2年で収穫できる。何とか間に合うか?そういえば桑の木も、ゴマダラカミキリとクワカミキリに新芽を食われ続けている。適用のある農薬がないので丁寧に剪定して除いているのだが、手間のかかること半端ではない。

 さて、TCA回路についてちまちまと書いているのだが、一つ一つの事項に対する確認がいよいよ難しくなってきた。サイエンスに基づいて書こうとしているのだが、いっそのことファンタジーとして書いたほうが楽かなと思うこともある。持っている専門書が古くなったし、新しい報告へのアクセスも不便である。九大の図書館が使えればいいのだが、片道の交通費で3,000円以上かかるだけでなく、丸一日が潰れてしまう。さらに次の日にも疲れが残るとなれば、一寸行ってこようという気にははならない。まあ可能なだけ書き続けるという楽な姿勢で向かうことにしよう。

 そこで次回の予告編になるのだが、アブシジン酸とルヌラリン酸の場合と同じような推論を行ったわけである。《アブシジン酸の総合的理解に向けて》の中で、植物の進化においてルヌラリン酸の植物中でのニッチをアブシジン酸が簒奪したという仮定の下で論を進めた。つまり、アブシジン酸が植物の生長を抑制する(好ましくない環境下において一時生長を止める)という機能をルヌラリン酸から引き継いだという立論からはじめた。TCA回路についての議論においても、逆のベクトルを持つ二つの回路において、より古いと推定される還元的カルボン酸サイクルの持っていた欠くべからざる機能を、好気的TCA回路が継承したと考えたわけである。先に述べたように、エネルギーの生産(ATPの生産)を、この「何らかの機能」として措定することは難しいと考えた。では、いわゆる好気的TCA回路は還元的カルボン酸サイクルから何を継承したのだろう。

 などなどと考えながら、人とは各自の持つ幾つかの思考様式に縛られているものだと少なからず呆れている。私の場合、幾つかの系路を比較する場合、まずそれぞれの系路の成立年代を考える。次に若かった頃に影響を受けた構造主義ー特に分節という概念ーと、カールマンハイムの知識社会学ー知識の「存在被拘束性(Seinsverbundenheit)」ーという二つの考え方を、対象とする代謝系の分析に適用する。今回もその域から一歩もでていないようだ。とはいえ、解糖系の存在意義についての解釈が今までとは全く違った解釈になっている点においてはある程度満足している。そして、この解釈の演繹可能性に期待しているのである。

 さてもう一度、桑の剪定枝の片づけに行くことにしよう。

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