コロナ騒動についてだが、ダイアモンドプリンセス号から乗客が降り始める頃から、これは仕組まれた話ではないかと思い始めていた。その後のPCR 騒ぎの中で、なまじPCRについて知っていたが故に、いよいよ疑問が深まって行った。そこに出現したのが新型コロナワクチンである。通常であれば安全性の確認に10年程度はかかるのに、新型コロナ感染症が流行り始めて1年程度しか経っていないのに、その接種が始まるという。作ったのは余り評判の良くなかったファイザー社と、製薬に関して殆ど実績のないモデルナ社だという。そしてそのワクチンは、ウィルスの外側につき出したスパイクタンパクをコードしているmRNAを成分としているという。アストラジェネカ社のワクチンも、スパイクタンパク質をコードする遺伝子をアデノウイルスの中に入れ込んだものだという。頭を抱えた。コロナ感染症で種々の障害を起こす原因がスパイクタンパク質であることが分かっていたからだ。どうして3社がそろいも揃って、毒性タンパク質であるスパイクタンパク質を体内で作らせるという選択をしたのだろう。抗体を作らせるためであれば、ウィルスの他の部分でも可能であるに違いないのにである。すごく嫌な気がした。
さらにだが、この新型コロナワクチンと呼ばれているものは、従来のワクチンの定義からはみ出たものである。今でこそ核酸ワクチンというカテゴリーが作られ当たり前のようにワクチンということで話が進んでいるが、少なくともこのコロナ騒ぎが始まる前までは、ワクチンに分類されるものではなかったのである。だから、このブログの中ではワクチン擬という表現をしてきたのである。コロナウィルスはどこにでもいる風邪を引き起こすウィルスである。このウィルスは根絶できるようなウィルスではない。免疫も余り有効ではない。だから、毎年多くの人が何度も風邪を引く。新型と命名されたコロナウィルスであってもこの性質は変わらない。少しだけ症状が酷いかもしれないが、しばらくすれば毒性も治まるべき所に治まり、普通の風邪化して行くと予想していた。尤も、重症化した場合はスパイクタンパク質の影響で全身に思い掛けない症状が出る可能性があるため、これを抑えるための薬剤は必要だなと考えていたわけである。
このウィルスの増殖を抑える薬剤として候補に上がったのがアビガンとイベルメキチンである。アビガンは見るからに催奇性がありそうな気がしたが、緊急用の薬剤としては効くかもしれないと思った。イベルメクチンはスーパーコンピュータを使った抗コロナ薬の探査での候補に上がった薬剤で、その作用機作から見て最も有望であると思った。外国でよく効いたとする報告もあったのだが、どうしたわけか”イヌの虫下し”と罵られ、なかなか治験の場に現れなかった。両者とも、実に不適切な投与条件による治験らしきものが実施され、効いている可能性のあるデ−タがあったにもかかわらず、効かないという結論になってしまった。余り知られていないのだが、抗コロナウィルス薬であるレムデシベルと同じ日にイベルメクチンも使えるようになっているのだが、医師への通達がなされていないらしく、使えることを知らない医者が多数存在する。
研究を行っていた時にイムノアッセイ(免疫検定,免疫定量)という手法を使ったことがある。その時に免疫学を少々かじっていた。実験動物に抗原を接種したあと、一定時間を置いて再度接種を行うと抗体の産生が上昇する。この、再接種をブースター接種と呼ぶ。研究者としては抗体が欲しいのだからこの手法は非常に有効であるのだが、ブースター接種を何度も重ねると、 ADE(抗体依存性免疫増強 antibody-dependent enhancement)と呼ばれる免疫システムの異常を引き起こし、実験動物が死んでしまう。RSウイルス、デング熱ウイルスとともにコロナウイルスを標的としたワクチン候補がADEを誘発した事例が知られていた。上で書いた核酸ワクチン類でADE が起こるかどうか、その検証がたった一年でなされているとは考えられない。とても不安だった。
アメリカにおいては、緊急事態宣言下における緊急承認という形で接種が始まった。日本政府もすぐに追従した。治験薬という位置づけであった。それから起こったことは、今更言っても仕方ないので何も言わないが、とにかく不安であった。このワクチン擬はきっととんでもない事態を引き起こすだろう、コロナ感染症で死ぬ人より、コロナワクチン擬で死ぬ人の数が遥かに多くなると予想した。少々のことは明るいぼやきで済ますのだが、以下はぼやきではなくて愚痴である。
しかしながら、世の中はこのコロナワクチン擬を救世主のように思いなして、殆どの人が接種を待ち望み、長蛇の列に並んで接種を受けた。隠遁している爺には、この現象を止める術がなかった。せめて親戚だけでもと電話をかけまくったが、陰謀論やねと一蹴された、NHKではそんなことは言うとらん、国がそんなものを奨める筈がなかろうもんと否定された。一応聞いてくれた人も、暫くすると世間が皆打ちよるけん打ったと、気の毒そうに答えてくれた。世の流れにあれこれと抗うのは無駄だなと痛感した。一所懸命伝えたいことが、全く伝わらない、今までの生活の中で何度となく経験したことであるとはいえ、今回の件は命にかかわる。そう思うと、この事実は極めて重い。
要するに、国民を殺すことを目的にしたワクチンを国が奨める、そんなことがあるものかという実にまともな意見が、私の意見の前に立ちはだかっているのである。正直な話、私もそう思いたい、そう思って暮らせれば幸せだと思うのだが、今の政府にそれは求められないように感じている。統一教会と政治家との癒着、どうして日本は韓国に金を貢げというアジェンダを持つ団体に日本の政治家は靡いてしまうのだろう。正規雇用は首切りがやり難い、不正規雇用を増やして人員整理をやりやすくせよ、且つ正規雇用者を減らし、非正規雇用者の給料を物品費として計上することを可能にせよ、「日本に税金を払う事は無駄である」「何であんな国に(税金を)払う必要なんかあるんですか」などという竹中平蔵が、国会議員でもないのに経済財政政策担当大臣とIT担当大臣になるのか、そんな人達が構成する政府を闇雲に信じていいのか。ああ、言い出したら切りがない。止めよう。
無力である、非力である、なにくそと気持ちを奮い立たせてはいるが、状況はどんどん悪化して行く。問題は国内問題ではなく、グローバルな問題の一部が国内問題として現れている。ところが、それを伝えるべきマスコミが「増す塵」化しているとすればまたまた無力感を感じるしかない。それ以上にこの危機感を共有してくれる人が実に少ない。仕事を辞めるとき、寺子屋を開きたいと思っていた。10年経ったが、まだ目処が立たない。本人がロートル化してしまって、今ではアホロートルである。これはメキシコサンショウオを貶めたわけではない。阿呆なロートル爺であると再確認した言葉である。
人口を減らすためのワクチン、つまり殺すためのワクチンの存在を認めるか認めないかという判断に、多分、いや間違いなくその後の思考の分岐点がある。善良で私より遥かに良心的な人々は、そんなものはないという確固とした前提の上で考えている。その考え方は間違ってはいない。どう考えても、それが間違っていると批判するのは無理だろう。だが、だがである。
私が、大学の4年頃だったと記憶している。シンクタンクであるローマクラブが発表した「成長の限界」は、MITのデニス・メドウズ教授らの研究チームが、このまま人口増加や環境汚染などが続けば、資源の枯渇や環境の悪化により100年以内に文明の成長が限界に達すると警告した衝撃的なレポートである。マルサスの人口論を基盤にした内容で、人口増加を抑えなければ、カタストロフ的文明の崩壊が起こると予言したのである。勿論、100%信じたわけではないにしても、在る程度の真実を含んでいると思った。ビアフラやエチオピアでは、信じられないような飢餓が進行していた。ビアフラの飢餓はナイジェリアとの内戦に由来するものであり、少しばかり色合いが違うとは思うものの、環境容量を基礎にした人口問題と言う捉え方にも合理性があるだろうと感じていたのである。先日破壊されたジョージアのガイドストーンは、余りにも過激過ぎるとはいえそうした危機感のもたらしたものだろう。
食糧不足を定期的に起こす地域、ここに食料援助を行う。人道的立場から見れば、それは正しい。しかし、常習的食料援助で生き延びた子供たちが、大人になってさらに子供を産む、人口が増える、また飢餓が起こる。世界は、この地域にいつまで援助を続けることが出来るのか。このサイクルを繰り返した最後に何が起こるのか。カタストロフである。自明なことだが、その時代においても色々な矛盾はあった。食糧の分配、富の偏在、植民地政策故の農業の変質など、これらを解決できれば、そんなことは起こらない。そういう意見もあった。正直な話、私はその二つの見解の狭間で、振れ続けていた。
近年、生活水準の向上と女性の社会進出が達成されたように見える国々においては、出生率の低下が著しくなった。先進国と呼ばれる国々では人口の伸びが止まった。しかし、発展途上国においては人口増は続いている。発展途上国においても、生活水準の向上と女性の社会進出が達成されれば、人口の増加は止まるのではないかと期待していたのである。いましばらく、食糧の分配、資源の分配を適切にやれば、カタストロフを避けられる可能性が出てきたなと思っていた。
人口とは国力である。いわゆる先進諸国が、途上国の人口増と自国の人口停滞・減に危機感を感じ始めたのである。いわゆる南北問題だと思う。政治の表側では単なる南北問題として捉えられているが、裏側ではガイドストーンに書いてあるような過激な人口抑制を主張するグループが、大きな影響力を持ち始めていたのである。このグループがWEFを中心とした世界の富裕層の集まりである。このまま人口増が続き、全世界を巻き込むカタストロフで膨大な数の人々の死を起こさないためには、今何らかの手段で間引きをしたほうが苦しむ人の数が少なくて済むという理屈であるようだ。もっと露骨に言えば、今なら80億人のうち75億人を殺せば済むが、将来100億人になれば95億人を、120億人であれば115億人を死なせねばならない。75億人の犠牲で済ませたほうが人道的だろうという理屈である。彼らの発表したアジェンダを読むとそう読める。現在、富と知識と技術と力を持つ富裕層が、そうした理論を基に間引きする行動を起こしているように見える。ウィリアム・ソウルゼンバーグの著書、「捕食者なき世界」などを読めば、そうした発想が出てくるかもしれない。
では、彼らのその行動を認めるかと問われれば、どこかで認める気にはならない。会社が不況で人員整理という首切りを行う。最前線で辞表を取りまとめた人事担当者は、集めた辞表の一番上に、自分の辞表を置く。ところが、ビル・ゲイツは、十年以上前から米国の農地を買い占めを始め、今では全米一の大農場主になっているし、Amazonのジェフ・べゾスまでが手あたり次第、農地を買いだしたという。我々は肉を食う、お前らは死ね、死ぬのがいやならコオロギを食え。彼らには自分の辞表を一番上に置くという美学はなさそうだ。
彼らは軟着陸を目指すのではなく、ハードランディングの道を選んだように見える。そういう意識を持って新型コロナ、コロナワクチン擬、サル痘、合理性のない行動制限、マスク問題、二酸化炭素削減、窒素削減などを見るのか、ただ単なる疫病や地球環境問題に基づく社会の混乱と見るのか、そこに世界観の分岐点がありそうだ。でも、いつも少数派だもんな。私の意見はいつも異端だ。ここを理解した上で、自らは安全な場所に置き儲ける方法を思いつかないこともないが、そんな行動は自らの美意識が許さない。ただ自虐的にぼやくしかないのである。寺子屋をやりたいな。思考力のある若者を育てたいと切に願ってはいるのだが・・・。また、陰謀論者と揶揄されるのだろうな。さあ、今日もまた草刈りだ。