ケシは何故「モルヒネ」を作るのか・・・追記

 ケシは何故「モルヒネ」を作るのかという記事を書いた。書いた本人の中では結構気に入った記事である。まず、適用範囲が広い仮説を作ったなと思うからである。ケシの部分に別の植物名を入れ、モルヒネの部分にその植物の作るアルカロイド名を入れれば一つの物語が描けてしまう。つまり、何故チョウセンアサガオはアトロピンを作るのか?とか、何故マチンはストリキニンを作るのか?とか、何故ヒガンバナはリコリンを作るのか?など、この仮設の適用範囲は非常に広い。或るアルカロイドを生合成する植物と対応するアルカロイドの名称を代入して、それらの生合成系で起こっている窒素サルベージ系からの離脱反応を見つければ物語は完成する。いや完璧だな?

 勿論、問題がない訳ではない。何にでも通用する仮説は何も述べてはいないという適応主義者の「Just so story」のように受け取られかねない事だ。だが、この仮設は説明できる多くの例を含んでいるが故に、その中から反証を見つけるという行為は可能である。反証の機会を担保する無数の例があるのだから、どなたでも良い、是非この仮説の綻びを指摘して欲しい。そこでの議論のなかで、植物に対する理解が進めばよいと考えている。

 この仮設においてもう一つ気に入っている論点がある。ある植物がアルカロイドを作る理由に、アルカロイドの持つ生理活性を使う必要がない事である。いままでは、アルカロイドの持つ多様な活性を存在理由を説明するための材料としていたため、読むに堪えないほどの混乱が起こっていた。その場凌ぎの説明ばかりで、それらの説明の間に多くの矛盾が発生していたのである。その矛盾を隠蔽するために各化合物を小さなカテゴリーの中での議論にとじ込め、俯瞰的、横断的立場からの議論を回避していたとしか思えない。

 この仮設・・・そうだ「窒素サルベージ仮説」と名付けよう・・・においては、各化合物の生理活性に考慮する事なく、その化合物が作られる代謝系にその存在意義を求めている。ある植物はあるアルカロイドを窒素サルベージ系からのスピンアウト物質として作ってしまった。それはアミンとアルデヒドという反応性の高い官能基が、植物体内で近接して存在することから起こる必然の結果である。この惑星上で起こっている膨大な種類のアミノカルボニル反応・・・パンが焦げた時の色、味噌や醤油の着色、肉を焼いたときの褐変、玉ねぎを炒めたとき褐変、ブラウンソースの着色、コーヒー豆焙煎時の褐変、黒ビールやチョコレート製造時の着色など・・・とともに、植物体内においても同じ反応群が機能していたのである。

 偶然といえば偶然、必然といえば必然の結果として生起したシッフ塩基がその高い反応性故に植物体内に存在する種々の酵素の基質となり生成したものが、いわゆるアルカロイドという化合物群であるという理解になる。この化合物群は多様な構造を持つが故に、いろいろな生物に対して興味深い生理活性を持っていた。とはいえ、生理活性を基礎とした多くの物語はアルカロイド作られた後に発生したものであり、その活性がアルカロイドが作られた理由にはなり得ない。この時間的関係こそ、歴史生物学が主張している根幹にある考え方である。

 いまひとつ、もっと気に入っている理由がある。この窒素サルベージ仮説においては、アルカロイドへと向かって続く系路と、そのアルカロイドから分解して行く系路全体を、窒素サルベージ系路のバイパスとして考える。そう考えれば、どのアルカロイドでもよい、その生合成系と生分解系を構成する全ての中間体に、窒素の再利用系の構成物質としての存在意義を認める事ができるのである。現在の社会では、一部の金もうけの巧い人々が高い評価を受け、社会の底辺というと語弊があるのだが、この社会のインフラを担っているような人々を低く評価する場合が非常に多い。こうした風潮が今も強まっている事に嫌悪感を感じていた。バランスのとれた社会を構築して行く上で、いろいろなカテゴリーとヒエラルキーで働く人々が必要であり、不可欠である。そうした人々に対する見方の中に、代謝マップの上で生理活性がなく存在量も少ないため無視されがちな中間体に対する評価基準の間に通底する要素があると考えていた。この仮説においては、生理活性を持たず存在量も少ないサイレントマイノリティーとも云える物質群に、大きなレゾンデートル(存在意義)を付与できたと自己満足しているわけだ。

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