ジャガイモの植え付けが終わった。ワケギとニンニクの草取りも終わった。柑橘類の剪定、カキの剪定、桑の剪定も終わった。雀の混群が分裂し、同種の仲間で行動するようになった。数日前、久しぶりに山雀の声を聞いた。四十雀よりも透き通った高音で、ツツピー・ツツピーと鳴く。麻の実を好物とする可愛い鳥である。野には春が漲っている。ハコベ、ホトケノザ、オオイヌノフグリ、ナズナなど、花を楽しむことなくタマネギ周りの雑草として抜いてはいるが、その花々はタマネギのものより可憐である。
これから彼岸に向けて春野菜の種まきが続く。タキイ種苗、野口種苗、中原採種場、松永種苗、藤田種子さんなどいろいろな種屋さんのサイトを開き、今年はどれを植えようかと悩む時間は至福のひとときである。とはいえ、世の中は乱れに乱れている。先日とある会合に行ってきたのだが、マスクをした人ばかりだった。私は昨年の6月頃からマスク不要論者である。アメリカの50の州すべてでマスクの着用義務が解除されただけでなく、ヨーロッパ各国でもマスクを不必要とす国々が主流となり始めている。にもかかわらず、何で学問的裏付けのないマスクを同調強制するのか分からない。勿論、他の国々がそうしたから日本も追従せよとといっているのではない。きちんとした裏付けをとった後、自らの主体的判断で行動したらどうだと云っているだけである。ほんの数年前までは、サングラスとマスクを付けて銀行に行くと警備員が飛んできた。いまは素顔のままで銀行に入ると顔を隠して下さいとマスクを持った行員が飛んでくる。時代は変わったな。
ワクチンを接種していない私は、もちろんいつもの少数派である。それが原因で差別(区別)されることには慣れた。私は私の学問的な知識と経験を基に、主体的に判断しただけのことである。少なくとも10年以上PCR という手法を使ってきたし、イムノアッセイも経験してきた。今回のコロナウィルス騒動で、カラクリの核心とも云うべき技術については、教科書的知識のみならず実践的なknow-howも身に付けているつもりである。私が納得できるようなPCRに関する説明、免疫学的説明、医学的説明がなされるのであれば、意見を変えることに異存はないのだが、残念ながらそうした理知的・論理的な説明を見聞きしたことはない。それどころか、経産省所管の研究所が分析調査したら、ワクチン接種をしない人の傾向として「女性、低学歴者、預貯金額の少ない人々、全般的な不安傾向がある人々、新型コロナへの恐怖の小さい人、うつ傾向のある人、痩せている人」という結果が出たなどという、未接種者を貶めるかのような報道が出る始末である。まあ執筆者を見れば、こういう内容になることは容易に予想できる。但し、経産省の研究所が委託したものであるからといって、その内容に関して経産省が責任を負う訳ではない。原報には{RIETIディスカッション・ペーパーは、専門論文の形式でまとめられた研究成果を公開し、活発な議論を喚起する事を目的としています。論文に述べられている見解は執筆者個人の責任で発表するものであり、所属する組織及び(独)経済産業研究所としての見解を示すものではありません。}と注釈が入れてあった。うむ、公務員としてはそうだろうな。
それはそうとしてこのコロナ騒ぎ、よくよく振り返ってみれば私の思考様式を再確認するものであったようだ。私はアブシジン酸を考えるにあたり、カロテノイドと呼ばれる化合物群の歴史をたどり、どこか構造が似ているルヌラリン酸の歴史をたどって、その結節点を求め、さらにはフラボノイドと呼ばれる化合物群との分岐点を時系列の中に置くという常識から外れた布置の上で考察を行った。要するに歴史を重視する視座に依拠した訳である。同じく国際間で何か問題が起こった場合、少なくとも100年、場合によっては1000年でも2000年でも遡って考えることにしている。民族と宗教の問題はそういう深いところに重要な原因を潜ませている。一つの紛争、一つの戦争を単純化した善悪や損得で見るなど愚の骨頂であると考えている。コロナ騒ぎであっても、少なくとも1970年頃にローマクラブから出された「成長の限界」までは遡らないと、大枠は見えないだろう。さらに遡ると陰謀論と呼ばれる世界に入ってしまう。さて、損得で見てはいけないとは言うものの、損得は大事だな。この事件、この戦争、この政策、最終的には誰が儲かるのかという視点は、必須である。
そんなふうに考え続けてきた結果、金太郎飴のような意見をもつことができなくなり、社会的にはいつも負け続ける「いつも少数派」として生きてきた。とはいえ、何人かの信頼してくれる仲間ができてきた。それで不満はない。