ABA 沈思黙考 6

 KEGGに改訂に伴い、双子葉並びに単子葉植物はすべて完成したアブシジン酸生合成系を持つようになったようだ。しかしながら、アブシジン酸は「スギゴケ以上の高等植物に分布し・・・」という考え方に従うとすれば、困ったことになる。スギゴケの仲間に分類だれるヒメツリガネゴケはXanthoxinからAbscisic aldehyde、Abscisic aldehyde からアブシジン酸への二つの段階の酵素を欠き、シダ植物であるイヌカタヒバはAbscisic aldehyde からアブシジン酸をつなぐ酵素を欠く。では代謝系がアブシジン酸まで伸びていない植物はアブシジン酸を生合成できないのか。そんなことはない、アブシジン酸はそれなりに生合成され、色々なストレスに応じて増減しているようだ。この矛盾をどう説明すればいいのだろう。

 柿本人麻呂といえば、日本語という言語の黎明期に極めて大きな役割を果たした智の巨人である。彼の作歌は、彼の年齢とともに表記法が変わっていくのだが、その表記法が日本語の成立と同期しているようだ。勿論、私が言っているのではない。梅原猛氏が「歌の復籍」という本の中で述べていることである。ところが、柿本人麻呂歌集を、その表記法の違いを基に、彼が作った歌ではなく柿本人麻呂が集め編集した歌集として理解しようとする立場を取る人がいるらしい。日本版ホメーロス問題であろう。私は、私より遙かに優れた【天才】の存在を認め、歌の基底に流れる人麻呂独特の構想の大きさ・特有な調べから、柿本人麻呂歌集は柿本人麻呂一人の作品であるとする説に同意する。また関係のないことを書き始めたと、眉をひそめる読者がおられるかもしれないが、アブシジン酸の活性とは何であるか、アブシジン酸の生合成はどのように起こっているのかという2つの問に答えるには、ホメーロス問題が1つの指針になると考えている。

 かなり昔の話だが、ジベレリンの活性について考えていた頃、なぜこんなに多種類のジベレリンが存在するのかという疑問とともに、ジベレリンの活性とは植物体内に存在している活性型ジベレリンの活性の和として捉えるべきではないのかと考えていたのだが、そう言っても余り相手にされなかった。

 もう一つ、ジベレリンについては言葉の使い方に大きな矛盾が存在すると思っている。いままでに知られているジベレリンの仲間は100種を軽く越える。その中にはGA1、GA3、GA4など少数の活性の高い化合物群とともに、活性がないとされる多数の化合物群が存在する。微量で高い活性を持つ植物ホルモンという集合の中にジベレリンという物質群があるのだが、その中に生理活性を持たないジベレリン類を含ませることにはかなりな違和感を感じてしまう。つまり、生理活性のないホルモンという言明、これは自己撞着以外の何者でもない。ただ、ジベレリン研究の歴史的経緯から見れば、そんな言葉尻を捉えるような批判はするなとたしなめられる可能性が高い。

 それはそうとして、アブシジン酸の話である。先に述べたように、いくつかの植物がアブシジン酸に達する生合成系を持っていない。しかし、それら植物の体内にもアブシジン酸は存在する。存在するだけでなく、ストレスに応じて量が増減するらしい。この現象をどのように理解すればいいのか。

 答えは何度も書いてきた。賢明な読者には何を今更と思われるかもしれない。本ブログでは、酵素の基質特異性を意識的に否定するような発言を繰り返してきた。酵素の特異性なんて、酵素発見の初期においては驚くような特性であったことは理解できるが、大したものではない。酵素の中で多くのものは大した基質特異性は持たない。消化酵素を考えれば、それは明らかなことである。アミラーゼやペプチダーゼなどが高い基質特異性を持っていたら、食物中に含まれる雑多な鎖長をもつデンプンや種々のタンパク質に対応できないではないか。甘い基質特異性こそが必要なのである。

 さらに、かなり高い基質特異性が求められる酵素群、例えばシナプスでの正常な神経伝達に不可欠なアセチルコリンエステラーゼという酵素、本来の基質であるアセチルコリンと間違えて有機リン剤、カーバメート剤、そしてネオニコチノイド剤と呼ばれる極めて多数の化合物群を取り込んで本来の機能を失うではないか。酵素は容易に騙されるのである。さらに何度か強調したように、いわゆる解毒という代謝系の中で働くオキシゲナーゼ(シトクロームP450)の、酸素ではない基質に対する特異性は甘くないと、本来の機能は果たせない。

 アブシジン酸生合成系を見たとき、β-カロテンから後は殆どがオキシゲナーゼによる酸化反応の連続である。植物におけるオキシゲナーゼ分子種の多さを考えれば、ある段階が1種の酵素で触媒されていると考える必然性はないのではないか。もちろん、何種かの植物には萎凋性を示すミュータントが知られており、原因となっている遺伝子まで特定されていることは周知の事実である。だが、そうした代謝系のブロックが起こっているミュータントにおいても、アブシジン酸濃度が完全にゼロになってはいないのである。つまり、ある段階を触媒しているのは複数の酵素であり、その中で主要なものを○○代謝酵素として認識し、他のものを無視するということが起こっているのである。ひょっとしたら我々は、幾つかの種類の植物がアブシジン酸を抗ストレス性の生長調節物質として使用するようになる最終段階に立ち会っているのかもしれない。

 さて、先の考察を読んだ多くの人が、現在認められている定説の瑕疵部分をつなぎ合わせて構築したような考察だとの感想を持たれるかもしれない。その感想は分からないでもない。定説を信じる立場から見ればそう見えるだろう。しかし、私の立場は違う。定説というものは、物質にしろ酵素にしろ活性の高い、目立つものをだけ集めて紡いだ Noisy minority のための物語である。私が提出しているのは、量的には多くあっても活性の低い。あるいはない代謝物質と基質特異性の低い酵素を基礎にして構築した Silent majority を重視した仮説である。Silent majorityを説明するための仮説を、学会ではNoisy minorityであったかもしれない私が提唱する、人の世とは面白いものである。

 これから先は仮説というより単なる想像に過ぎないが、蓋然性のある想像として述べておく。β-カロテンからアブシジン酸に至る生合成経路において、酵素の関与しないtrans体からcis体へ異性化反応がある。9-cis-Violaxanthinと9-cis-Neoxanthin生成段階である。この異性化は光によって起こる異性化反応である。さらに、アブシジン酸の生合成の5つのステップが、モノオキシゲナーゼによる酸素分子の消去を伴う水酸化であり、いま1つもやはり酸素分子の消去を伴うジオキシゲナーゼによる二重結合の開裂反応である。これは何を意味するか。

 太陽光の照射が始まり光合成が起こると、先に述べた9位の2重結合のcis体への異性化とともに植物体内の酸素濃度は必然的に上昇する。酸素分子をこれらオキシゲナーゼの本来の基質であると考えれば、アブシジン酸の生合成が加速するのは必然の結果となる。つまりアブシジン酸は、光合成が起こる環境下において生合成量が増加するという基本的な動態を持つことが予想できる。さらに、太陽光が当たると当然気温が上がる、気温が上がると蒸散量が増える、従って、水の不足が起こりやすい。そんな条件下に、アブシジン酸の生合成が加速するのである。

 アブシジン酸が基本的にもつこの濃度変動特性は、植物で抗ストレス的に働く化合物として極めて望ましい特性であったに違いない。そしてこの望ましい特性を持つアブシジン酸の構造が、“原ホルモン”として働いていたルヌラリン酸とよく似ていた。二つの化合物が共存したと思われる5億年余りの時間の中で、アブシジン酸はルヌラリン酸の役割を補完する化合物としてのニッチを獲得していったのであろう。

 ところが、4.7億年ほど前に、陸上への進出を試みていた原始植物の中で、偶然にもスチルベンシンターゼがカルコンシンターゼへと変化を起こし、ルヌラリン酸の生合成系が消失した。この偶然と先述した二つの特性が、アブシジン酸によるルヌラリン酸に代わる次代の抗ストレスホルモンとして地位獲得を可能にしたのではないだろうか。さらにだが、スチルベンの喪失に伴って生合成が始まったフラボノイドと呼ばれる物質群が高い紫外線防御能を持っていたことも、原始植物の陸上への進出を助けたであろう。

 などなど、屁理屈かもしれないがよくも考えたと自ら呆れている。

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