下書きが溜まっているのだが体調不良

 あれこれと書き始めて中途で止めている下書きが溜まっている。理由は、安易に書き捨てるわけにはいかない内容であり、どう書くかで迷っているからだ。いま一つ、体調不良が理由だが、だからといって心配はいらない。昔からしたくない仕事をズルズルと先延ばししていると、その期間が長引くにつれて体調が悪くなる。民生委員として社会福祉協議会が行う共同募金の集金に行くように依頼されているのだが、これが果たして民生委員の仕事であるかどうかについていま一つ納得できていないからである。一年近く民生委員をしてきたとはいえ、市役所と社会福祉協議会とどのような関係にあるのかが理解できていないのが原因である。まあ私も村社会の一員であるので、どこかでモンモンとしながら従うのは従うのだが、足は重い。これが終われば体調の回復は間違いない。

 今日、山の法面が燃えた。隣の畑の持ち主が枯葉を燃やしていたときに燃え移ったという。私が駆けつけたときはもう殆ど消えていた。ただ、乾燥した状況にあったので、風が吹くとまた炎が上がる。近所のNさんに動噴を借りて水を丁寧にかけたのだが、何となく消防士気分である。水をかけた灰が飛び散って、灰まみれになっていた。私も、燃やしたい枝や切り払った雑草を沢山持っている。ただ、近頃雨が降らず湿度が30%前後の日が続いているため、火を付けるのを控えていた。ここら辺りでは昼間、枯れ草を燃やしながら炎が燃え広がることを「赤猫が走る」というようだが、江戸時代の用法で赤猫という場合は放火犯を意味する。今回は赤猫が介在したわけではない。でも、燃え広がらなくてよかった。それにしても百姓とはいろんな経験をするものであると改めて実感した。

 世間の人と違うことをしようなんて全く考えていないのだが、いつの間にか違うことをしている。持って生まれた気質だから仕方ないと諦めている。世の中では「鬼滅の刃」なるアニメ映画が流行っているそうだ。もちろん行かない。ただ、鬼という言葉に惹かれた。「鬼滅の刃」とは全く関係ないのだが、鬼とは何かという疑問は昔から持っていた。いわゆる世間から追放、あるいは疎外された人ならざる人、従って人ならざる生業をせざるを得なかった人ならざる人々を意味しているように感じていた。もちろん先の範疇に含まれない鬼もいそうである。いつ頃だったか、桃太郎は鬼ヶ島に行って鬼を退治して金銀珊瑚を持って帰るのだが、この物語の中で鬼が悪事を働いたという記述はないことに気付いた。とすれば、桃太郎の方が悪党だなと思ったことがある。そんなこともあって大学の4年生頃だったと思うが、馬場あき子さんという方が書いた「鬼の研究」という本を読んだ。分かったような分からないような、不思議な読後感の本だった。理由は私が未熟であったと言うこと。年を重ねるにつれ何度も読み直し続けているのだが、いよいよ面白くなってきた。日本の古典について、人の心の在りようについてある程度の理解がないと読み過ごしてしまいそうである。夢枕獏氏の書いている陰陽師のシリーズにおける哀しい鬼の姿と思い合わせて読んでいる。

 近所に石材屋さんがいる。名前を出して良いのかな。宣伝になるかもしれないとは思うもののご本人の了承を得ていない。現段階では個人情報保護の観点から控えておくことにする。ここではいわゆる、一般的な石材だけでなく仏像を彫っておられる。そこでだが、その石材屋さんの工場の前にゴジラがいる。このゴジラ、世間の動きに敏感で、先日まではマスクを装着していたのだが、数日前に衣替えをしたらしく禰豆子のコスチュームを纏って立っていた。思わず笑ってシャッターを切った。車の中からなのでアングルも背景も無茶苦茶だが、とにかく紹介しておく。

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