歳を重ねて食事の量は減った。飯は一膳しか食べないし、味噌汁も一杯きりである。これ以外に何か一皿あれば何ら文句はない。数切れの漬け物でもあれば飯の量が足りなくなるのだが、この状況を不満に感じることはない。段々と仙人に近づいているのかもしれないと思うのだが、現実はそうでもない。昨日は甥っ子が釣ってきたブリにありついた。今日は、昼にドラゴンフルーツのジャムを食べ、スイートスプリングを絞ったジュースを飲んだ。夕食にはNさんから貰っていたイノシシを食べた。町中にいたときより食卓は多彩である。
では、「偶には良いものを食いたい」というタイトルはどんな意味か。少量多品種、一応道の駅へ出荷している。出荷するとなれば見栄えが大事である。味とカロリーは同じだと思うが、見栄えが悪いと売れ行きは激減する。少しくらい値段を下げてもやはり傷のない美品には勝てない。農薬の使用に反対と言っている人であっても、虫食いがある葉物、コガネムシの幼虫が囓ったサツマイモ、カメムシが吸汁した柿や梨などをより分けて買っていくらしい。青果市場でも当然のこととして値段はひくいし時には売れ残る。
農薬の話をしているのではない。現実の話である。私も自分の知識に従って可能な範囲で減農薬栽培をしているのだが、収獲が近づくと薬の使用を止めるため、ある程度の虫食いが必ず発生する。収穫後、虫食いの少ない美品を選んで商品として出荷するため、手元に残るのは傷物になってしまう。一寸凸凹で隣の枝でこすられた柿、表面を囓られたサツマイモやダイコン、植物繊維分が多めになった葉っぱ、芸術的な食痕のある野菜など、これらが私の食糧になるわけだ。これは不平を言っているのではない。農家はどこでもそんなものである。そこで出てくる言葉が表題の一文、「たまには良いものを喰いたい。」である。
この望みを実現するための方法、これは簡単である。収穫をしている近所に人の畑に行って、「今年はどうですか」、「これは良いのがでけとる」、私の作った奴はこんな具合にはできないんだけどと作付けのこつを聞けばよい。育てるコツを教えて貰えるだけでなく、時には最高の収穫物を頂くこともある。良いものを食べたいという希望が達成される瞬間である。もちろん、後で私が作っている作物の中からそれに見合うと思われる収穫品を進呈するのは言うまでもない。良いものを食べただけでなく親交も深まる、一石二鳥だ。さて今日は隣のTさんから、味の乗った富有柿を3コンテナほど購入する予定である。親戚に少し配ろうと思っているのだが、その前の試食が楽しみだ。