歴史生物学 生合成から見たルヌラリン酸 前半

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  我々が生物体内に出現する1つの代謝物を理解するには、その代謝物の持つ構造や性質・機能を知るだけでは不十分である。その代謝物の地球科学的な歴史とともに、いかなる生物でどのような経路により細胞内のどこでどのようなタイミングで作られそして廃棄されるのかなど、総合的に知る必要があるだろう。ルヌラリン酸については、その分布と構造、構造に基づく活性について前節までで概説した。しかしそれでは十分ではない。もう少し、ルヌラリン酸について深掘りしてみよう。

  では、ルヌラリン酸はどのような経路を通って生合成されるのか。通常、ルヌラリン酸についてそんなことまで書いてある本は殆どない。理由は簡単で、ルヌラリン酸という極めてマイナーで有用ではなさそうな天然物について、著者のように拘泥している研究者がほとんどいないからである。さらに言えば、この化合物は研究者といわれるレベルに達しているヒトであれば、その構造式を見た瞬間にどんな経路を通るのかが容易に推定できる程度の化合物である。(但し、最後の芳香化の段階については、ルヌラリン酸の細胞内濃度コントロールという立場からサントリー(株)の太田氏のグループが詳しく検証している。)

       ルヌラリン酸の予想生合成経路(但し、間違い1.5カ所あり)

  つまり、上に示すように、ルヌラリン酸の生合成系は、シキミ酸経路を通って生合成されたフェニルアラニンやチロシンからアンモニアリアーゼと呼ばれる酵素によって4-ヒドロキシ桂皮酸へと変換される。

  この4-ヒドロキシ桂皮酸が3分子のマロニルCoA側鎖と縮合するのだが、そのまま縮合する場合と、桂皮酸の2重結合の還元が還元を受けた後で縮合する場合があるようだ。いずれにしても3分子のマロニルCoAの縮合で生成したポリケチド鎖部分が、脱水を伴う芳香化をうけて生成すると予想できる。とすれば、研究者してもそれほど面白くないテーマであるという結論になり、それ以上のことは誰もしなくなる。そもそも、ゼニゴケの生長阻害物質・光周性制御物質として見つかった化合物であり、その生合成を明らかにしたとしても、お金になりそうな話ではない。研究費獲得用のテーマとするにもいささか不利であろう。外部資金の獲得が業績として大きく評価される現代においては、誰も手をつけなくて当たり前であろう。

  しかし、「神は細部に宿る」という格言があるように、この化合物の生合成を詳しく検証していくと、異常に興味深い事実が浮かび上がってくる。間違った図を出して失礼だと叱られるかもしれないが、この予想図には1.5カ所の間違いがある。1カ所の間違いは、植物の代謝を良く知っている方はすぐに気付かれるであろう。残る0.5カ所の間違いは、時間をどう繰り込むかによって判断に迷うところである。こうした問題を含むルヌラリン酸生合成系を、チロシンまでの生合成と、チロシンからルヌラリン酸までの生合成に分けて述べていくことにする。以下、やや偏執狂的なこだわりを楽しんでいただければ幸いである。

  

​ ルヌラリン酸については何度か本文中に出てきたので, 何とか構造のイメージが涌くと思うが、急にシキミ酸あるいはシキミ酸経路、と言われても「それは何」と思うのではないだろうか。シキミ酸が、いかに重要な物質であるかを理解してもらわないと、これから先に述べるややこしい話しを読もうという気が失せるのは当然である。そこでまず、脱線気味にシキミ酸について説明を加えることにする。

  シキミ酸は、シキミ(樒、櫁または梻)の木の成分として1885年にヨハン・エイクマンによって発見された。この木は真言宗において仏事に用いられる香木であると同時に、一部の神社では榊の代わりに使われる宗教との相性が良い植物である。一方、この木は極めて毒性の高い神経毒アニサチンを含む有毒植物であり、その果実は劇物として指定されている。(図5-2参照)この樒の木で初めて見つかったシキミ酸は、後に全ての植物に含まれることが明らかになったが、通常その含有量は微量である。

      シキミ酸とタミフルとアニサチンの分子構造

  発見されたときは、単にこんな化合物が含まれていますという報告に過ぎなかったのだが、後にこの化合物がとてつもなく重要な化合物であることが明らかになってきた。

  最初の余談になるが、このシキミ酸が鳥インフルエンザの薬であるタミフルの原料になるということで、2005年頃から需要が急増した。近年、タミフルの効果は発熱期間が一寸短くなる程度で副作用はあるとする報道と、いや確かに効果はあるという見解が錯綜している。ヒステリックな副作用報道を信じる程ナイーブではない。しかし、今度のインフルエンザはとても致死率が高いなどという大騒ぎを、うまくコントロールして儲けようとしているようにも見える製薬会社にも不信感はある。最近の高血圧診断基準の異常とも思える引き下げ、もちろん高血圧学会が決めたことになってはいるが、製薬会社の思惑通りであることは間違いないであろう。血圧、下げすぎると認知症になる可能性が高まるだろう。

  さて、タミフルはウイルスが細胞内で増殖した後、細胞外へ出て行く段階で必要な酵素ノイラミニダーゼを阻害する。そのため感染初期の投与のみ有効であり、発症から48時間以降での投与では治療効果はほとんどないとされている。何だか、アビガンの場合によく似ているな。そのため、巷では家族の方にうつっているかもしれないからという理由で、保険給付対象外の予防投与を保険適用する医師もかなりいるらしい。この判断の是非を問うことは悩ましいが、その結果、一時期日本におけるタミフル使用量は全世界での使用量の7割近くに及んだという。

  そこで何が起こったか。シキミを含め普通の植物は、シキミ酸を大量にためこむことはない。ところが、カレーライスの隠し味として、あるいは中華料理に使われる香辛料八角(トウシキミ果実の乾燥品)はシキミ酸を多量に含む。タミフル需要の急増に伴い、ロッシュ社がタミフル製造用原料として八角の買占めを行ったため、価格の高騰が起こったと伝えられている。

       風が吹くと桶屋が儲かるとは云うが風邪(インフルエンザ)が流行ると中華料理とカレーライスの味が落ちるとは思いもよらぬところに影響が出るものだ。現在では、かなり効率的な合成法が確立されたようだし、遺伝子組み換えで作成した大腸菌による生産も可能になったようで、この問題は落ち着いてきている。ともあれ、過剰な薬剤投与は患者のみならず健康な人にとって好ましくない。薬剤耐性ウイルスの出現を早めるだけでなく、医療保険事業の赤字を増やしてしまう。製薬会社と医師達の良心に期待しよう。とはいえ、タミフル自体が、投与時期限定のちょっと気難しい薬ではあるようだ。

  そこでシキミ酸経路の話である。ウィキペディアによれば、「シキミ酸経路(shikimic acid pathway)は芳香族アミノ酸(チロシン、フェニルアラニン及びトリプトファン)の生合成反応経路。 間接的にフラボノイドやアルカロイド(モルヒネ(チロシン由来)、キニーネ(トリプトファン由来)等)などの生合成にも必要。微生物や植物の大半は有しているが動物には見られない。出発反応は解糖系のホスホエノールピルビン酸とペントースリン酸経路のエリトロース 4-リン酸の縮合反応で始まる。反応はコリスミ酸で各アミノ酸への反応に分岐するので、ここまでをシキミ酸経路としている場合もある。」となっている。下に教科書レベルのシキミ酸経路の図を示す。

                 教科書に載せられているシキミ酸経路

  出発点はホスホエノールピルビン酸とエリスロース-4-リン酸と考えて良さそうだ。しかし、両化合物はそれぞれ解糖系とペントースリン酸経路の正式構成員である。従って、この両化合物が反応してできた7-ホスホ-2-デヒドロ-3-デオキシアラビノヘプトン酸を出発点だとする決め方も可能だろう。経路の終点については、すでに異なった意見が存在する。日本薬学会は、芳香族アミノ酸であるフェニルアラニンやチロシンだけでなく、さらに下流のフェニルプロパノイドまでを含ませている。薬学会であれば、トリプトファン並びにトリプトファンに由来する化合物群も含める人がいるかもしれない。一方、ウィキペディアに寄稿したヒトは「芳香族アミノ酸に分岐する直前のコリスミ酸とする場合もある」としている。

  ここには認識に関する大きな問題がある。シキミ酸経路とヒトは簡単に言う。出発物質は、解糖系から生成するホスホエノールピルビン酸とペントースリン酸経路から生成するエリスロース-4-リン酸、この点では何とか意見が一致するにしても、終点は人によって違う意見が存在する。何が起こっているかといえば、現象としての代謝は連続した反応の連なりであるのに、ヒトがその一部を「シキミ酸経路」という言葉で切り取っているという事実である。さらに、その切り取り方は、切り取るヒトの意識に左右される極めて恣意的なものである。そんなことはどうでも良いではないかと感じるヒトの方が多いと思うが、時としてそうしたルーズさは墓穴を掘ることになる。(自戒:契約書、特に保険の契約書、法律はよく読もう)

  学問というものは、巷間思われているほど中立でもなければ科学的でもない。こんなブログを読む方であれば解糖系とTCA回路はご存じであろう。アセチルCoAはどちらに属するのか。まずい!!こんな構造主義的な話を始めると、ソシュールに言及せざるを得なくなる。そうすると、間違いなく本論より脱線部分が多くなってしまう。この話については詳しく述べる別の機会もあるだろうが、興味のある方には、私よりはるかによく分かっていそうな池田清彦氏の書いた『構造主義生物学とは何か-多元主義による世界解読の試み:海鳴社 (1988)』をお勧めしておく。

  とにかく、初めて生化学・天然物化学を学ぶヒトの道標として、○○経路という形で代謝の流れを教えるのは仕方ないだろう。しかし、この○○経路という分類にいつまでも縛られていると生き物が見えてこない。スムーズに流れている道路上で、頑なに道路交通法を遵守するドライバーのようなモノだ。

  そこで暫定的にだが、シキミ酸経路をホスホエノールピルビン酸とエリスロース4-リン酸から芳香族アミノ酸(分子内にベンゼン環を持つアミノ酸)であるフェニルアラニン、チロシン、トリプトファンを作る経路だとしておこう。ほとんどの植物・バクテリアや古細菌の一部分布する経路である。(動物はこの系を持たず、他の生物が作った芳香族アミノ酸を摂取することで命を長らえている。)この系路でタンパク質に必須な構成要素である3種の芳香族アミノ酸が生合成されるため、この系路は植物・バクテリア・古細菌など独立栄養生物と呼ばれる生物において、生命維持に欠くことのできない経路として位置づけ、議論を続けよう。

  さらに、植物においては、フェニルアラニン、チロシンは リグニン、リグナン、タンニン、スベリンなどフェニルプロパノイドと呼ばれる二次代謝物質群の原料であるし、同時に、フラボノイドやベタシアニンと呼ばれる植物の花や果実の色素、ブドウに含まれるレスベラトロールや甘茶の甘味成分フィロズルチンを含むスチルベノイドと呼ばれる物質群の原料である。さらに、フェニルアラニンに由来するアルカロイドの仲間—麻酔作用を持つモルヒネや鎮咳作用を持つコデイン、有糸分裂阻害剤であるコルヒチン、整腸作用を持つベルベリン—などもシキミ酸に由来している。一方、トリプトファンもタンパク質の構成成分として不可欠であるだけでなく、植物のホルモンとされているインドール酢酸、アセチルコリン阻害剤として毒性の高いフィソスチグミン、ヨーロッパの中世史に影響を与えた強い幻覚作用と向精神作用を持つ麦角アルカロイド、苦みの強い毒物ストリキニン、マラリアの治療薬であるキニーネなどもトリプトファンを起源としている。これ以外にもきわめて重要な物質群が3種の芳香族アミノ酸に由来していることから、このシキミ酸系路が大事な代謝系であることは理解して頂けると思う。

  シキミ酸経路についての日本薬学会の解説を引用すると、「解糖経路から生成するホスホエノールピルビン酸(PEP)とペントースリン酸経路から生成するエリスロース-4-リン酸(E-4-P)を出発物質とし、シキミ酸を中間体として経由する経路である。シキミ酸にもう1分子のピルビン酸が導入された後、分子内クライゼン転移反応によりプリフェン酸が生成する。続いて脱炭酸及びアミノ基転移反応を受け、芳香族アミノ酸であるフェニルアラニンやチロシンが生成し、各種フェニルプロパノイドに変換される。」 ということになる。

  そこでチロシンを作るときに作動するシキミ酸系路だが、当然その系路の中にはシキミ酸が存在している。細かい話はまだ横に置いて、まずシキミ酸経路についての説明を始めよう。まずは、上に示した教科書的に描いたシキミ酸経路を参照しながら読んで欲しい。初学者にとっては、シキミ酸経路を覚えるだけでも大変な作業である。それを、単なる恣意的な切断の結果などと云われて直ぐに飲み込めるかと云えば、なかなか難しいだろう。ゆっくり、頭を柔らかくして、考えて欲しい。従って、今回はここまでとする。

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