過剰と蕩尽 9

 書く気が失せていたブログをそろそろ再開することにする。

 私は真実を信じない。こう云うとよく誤解されるのだが、ある人の述べる真実を聞かないというわけではない。その真実を無批判に信じ込むことをしないだけである。では、物事を判断するとき何を基準に考えるかと尋ねられるのだが、私は事実を基礎として判断するように心がけている。曲がり角でAさんとBさんがぶつかって双方ともに怪我をした。AさんはBさんが飛び出してきたと言い、BさんもAさんが飛び出してきたと言う。ここにおいて、2つの真実が存在する。Aさんの主観による真実と、Bさんの主観による真実である。こんな時、客観的に見るとAさんが飛び出したように見えるよねなどという客観的真実を述べるヒト(Cさん)がいるが、これもCさんの主観を通した真実である。この客観的真実も、Cさんの物理的・心理的立ち位置に大きく支配されるため、なかなか判断が難しい。結局のところ、ある人の主観によって事実が咀嚼されデフォルメされて顕現したものが真実であると考えてよいだろう。

 従って個々人の持つ真実が、相互に完全に重なり合うことは決してない。ある個人が抱く真実のみを基盤として物事を決めることは、決定に個人の偏見が大きく影響することを意味する。ここに、非効率と言われながらも手続きを重視する民主主義が成立する基盤がある。奥歯にも前歯にも物が挟まっているような云い方だが、このご時世だから許していただこう。議論は、まず可能な限り偏見を含まない事実、実体の把握から始めなければならない。

 さて、「いわゆる抗生物質の発酵生産・アルコール発酵・乳酸発酵と云われるプロセスにおいて(グルタミン酸発酵でもいい、酢酸発酵でもメタン発酵でもよい)、すべての発酵に共通する条件は何であるのか」という問いを発していたのだが、私の視座からみると、微生物がこれらの生産物を作る理由は1対の条件に収斂する。その条件とは飽食と蕩尽である。

 もちろん、この結論は私の視座から見た事実群の解釈であり、私の真実である。つまり、私といういつも少数派の個性を持つ人間が、自らの学問的背景を基に考えたものに過ぎない。故に、その正しさについて絶対に正しいと保証されるものではない。他の人々が、同じ微生物による発酵生産をみて、異なった視座から異なった真実を語ることは十二分にあり得ることである。どちらがより正しい真実であるかは、一応客観的と称される視座にいる人々の数によって決まるが故に、正しいとされる真実も宗教や時代の風や常識、そして利害関係にとらわれた錯誤である可能性を捨てきれない。ここにおいては、多数決という決定方法が持つ原理的欠陥が露呈するというよりも、常識と利害関係の方がより大きく働くであろう。

 では飽食とは何か。現代の微生物学(特に発酵産物の生産菌探索)において用いられる培地群は、自然条件に比してかなりな富栄養条件を用いている。(これは偏見かも知れない。動植物の死骸や、動物の消化管内で増殖する微生物は十分以上に富栄養条件であろう)そうした培地で見いだされ働く菌は富栄養条件に適応した種類に限られる。言い換えれば、飽食に対する耐性を持った微生物群である。もっと言い換えれば、微生物による「いわゆる二次代謝産物の生産」は、命を保つために生産物を菌体外へ放出する蕩尽とも云える行動であると捉えるわけである。一方、そんな富栄養の培地には生育できない貧栄養条件に適応している多くの微生物群が存在する。その証拠に、一定量の土壌に生息する菌数を、貧栄養条件下で測定すると、富栄養条件下における菌数よりはるかに多い菌数が測定されるではないか。

 つまり私の視座からは、通常の培地で使われるような富栄養条件に適応できない多数の菌群とともに、飽食条件下に抗生物質・エタノール・乳酸・グルタミン酸等の二次生産物を捨てる(蕩尽する)ことで生きられる微生物群がいると観るわけである。蕩尽されたものがたまたま我々にとって有効であった場合に、その生物が脚光を浴びているにすぎないと捉えるわけである。最近、熱帯魚屋さんに行って熱帯魚とともに珊瑚(ミドリイシ)を飼育している水槽を見た。面白かったのは、横に置いた瓶の中にパン酵母とブドウ糖を入れて、発生する二酸化炭素を水槽内に導入していたのだ。珊瑚にとっては、エタノールではなく二酸化炭素が有用なのである。二酸化炭素施肥の一例だが、蕩尽されたもののなかで何が有用であるかは、同じ時間を生きている他の生物の都合で決まるのである。

 さて、富栄養条件に適応できる微生物と、できない微生物の関係はどのようなものだろう。生き延びるために蕩尽という方法を持つ微生物は、いつそのような能力を獲得したのか。ある程度、進化という概念になじんでいる人であれば、進化がある能力の喪失を伴う場合があることに違和感はないと思うが、一般の人の中には進化=進歩、新たな能力の獲得であると考える人がかなりの割合を占める。この場合、蕩尽という能力を持って発生した原生物の一部がその能力を失ったと考えてもよいし、蕩尽能力を持たずに発生した原生物の一部がその能力を獲得したと考えてもよい。では、どちらがより蓋然性の高い仮説であるのだろう。

 アメリカの北西部にイエローストーン国立公園がある。私はすぐ近くのソルトレークシティまで行った事があるのだが、残念ながらイエローストーン国立公園には足を伸ばしていない。世界最古の国立公園であるこの公園は、アイダホ州、モンタナ州、及びワイオミング州にまたがる8,983平方キロメートルの面積を持つ。日本でいえば四国のおよそ半分の面積と思えばよい。ここの地下には巨大なマグマだまりがあり、一旦噴火するとアメリカ大陸のみならず地球規模で被害を及ぼすと云われている。とはいえ、現在のこの公園はとても美しいそうだ。ここには地下から熱水を噴き出す噴出口と、それに伴う熱い池が存在する。TBSのTHE世界遺産の写真の中にきれいな写真があるのだが、個人レベルのブログであっても掲載が止められているので、そのアドレスとSecondglobe.com amazing places & people のアドレスを記載しておく。

http://www.tbs.co.jp/heritage/img/feature/2008/1280_1024_01.jpg
http://secondglobe.com/item/the-morning-glory-pool-at-yellowstone-national-park-rainbow-pool/

 これらの写真において、湖の色の変化はそこに棲息する微生物の作る色素が原因である。さらにこの池から熱水が冷えながら溢れ出していく温水湖群が成立しており、温度に依存する生態系を見ることができるわけだ。何で読んだのか出典をどうしても思い出せないのだが、温度の違う池の連なりの中に棲息する微生物群を比較すると、泉源に近い高温の池の微生物群の方がより古いグループに属するという報告があった。これは、高温に適応していた祖先から低温に適応した種が分れてきたことを意味する。この報告を読んだのは数十年前であり、かなりな違和感を感じた記憶がある。私自身が、無意識にホモサピエンスであるヒトの一員として、我々の棲息温度を基準に、好熱菌あるいは好冷菌などという表現を認めていたわけである。16SrRNAの塩基配列を用いた生物系統樹の根本付近には、真性細菌であっても古細菌であっても好熱菌・超好熱菌が位置することが常識になった現代においては、超好熱菌の方が起源が古いという話は何ら不思議なことはなくなった。彼等こそが生物が出現した時代の形質を維持していただけの話である。彼等から見れば、常温で暮らす生物こそがすぐにメルトしてしまうDNAと、低い温度で変性してしまうタンパク質しか持たない堕落した生き物であるのかもしれない。

 さて生物がどこでどのようにして発生したかということを考えたいのだが、アリストテレスまで戻って説き始めると現代まで来るのに何ページかかるか分からない。私は「生物の発生」としているが一般には[生命の発生]として扱われており、無数の書籍と報告が存在する。このブログの筋を理解して(反論をお持ちでも構わない)トレースしている方であれば、ユーリーミラーの実験に始まる現代的な仮説群についてある程度以上の知識をお持ちであろう。私は赤堀氏のポリグリシン説、ヴェヒタースホイザーの黄鉄鉱 (FeS2) 表面で有機物の重合反応を含めた多様な化学反応が起こることを基礎にした表面代謝説を基盤において、マントルから湧出する硫化水素や二酸化炭素、炭化水素などが流れている高温・高圧の地殻中をイメージしている。高温であるということは生成物の分解が早いであろうとして好ましくない環境であると考える仮説があるが、反応が早いため多くの組み合わせを試すことができる。作らなければ壊せもしないのである。樹形図の根本に生きる生物たちは、高温でも壊れない遺伝子を、そしてタンパク質を選抜して持っているではないか。ここで発生した生物が、熱水鉱床周りの生物圏を形成しただけでなく周囲の低温域に適応していったと考えるわけである。こう考えれば、後期重爆撃期の地表の激変やこれに伴う地殻変動などに対して余り影響を受けずに生き延びることができたであろうことは容易に推測できる。

 要するに、生物の構成原料となり得る簡単な分子類がかなり多量に存在する高温高圧下の地下領域において、多様な分子が作られたり分解されたりしながらその環境で存在しうる分子群が集積していく。集積した分子群がいかにして自己組織化し生物創生へと導かれたかについては分からないが、少なくとも何とかワールド仮説群のようなストーリーを辿ったのであろう。(パンスペルミア説と呼ばれる生物の起源を地球外に求める仮説があることは承知しているが、この説に従い地球に他天体の生物が到達した可能性を認めるにしても、最初の生物はどこで生じたかと云う問題は残るわけである。)

 さて、上の話がどこで過剰と蕩尽に関連するかと訝しく思いながら読んできたヒトもいるだろう。私だって、同感である。ただ云えることは、ある程度以上の化合物群の濃度がないと、反応そのものが起こらない。反応が起こらないことには、次のステップへ進みようがないのである。従って、生物が創生されたときの環境中には、かなり高濃度な原料分子群の存在があったに違いない。

 さらに、深海のブラックスモーカー周辺では、光合成に依存しない生態系が極めて高い生物生産性を持つことが知られている。ブラックスモーカー周辺で密集して棲息しているチューブワームと共生系を構築している共生細菌は、自らの生産物を体外に放出するのだがその体外がチューブワームの体内であり、チューブワームはその生産物で生きている。チューブワームは口も排出口も持っていない。つまり、この共生細菌(チオバクテリウム科に属する真性細菌)は、富栄養条件下に生命の維持に必要とする以上の生産物を生合成するだけでなく、これを外界に放出する蕩尽能力を持っている。チューブワームはこの菌が蕩尽した生合成産物に依存して生きているわけである。まるで、真核細胞と共生を始めた頃の、ATPを体外に放出する原ミトコンドリアを見ているような気がする。

 個人的な推測であるが、こうした真性細菌だけでなくブラックスモーカー生態系を構成する古細菌の仲間も、飽食条件下に(放出する分子が未知であるにしても)同じような蕩尽能力を有すると考えている。つまり、原生物はかなりな富栄養条件下に蕩尽能力を持って出現したと考える。そのような原生物から分岐した微生物群が、貧栄養条件にある周囲の岩石中や海洋中に分布を広げていくに際して、かなりな割合の菌群が蕩尽能力を失っていったのだろう。

 この仮説が成立するかどうかについては、ブラックスモーカー周辺から、生物系統樹の根っこに近い部分に位置する微生物を分離し、私の意図するような耐富栄養能力・蕩尽能力に有無について検討すればいいのだが、当分、この検討がなされることはないだろう。耐富栄養能力については、培地の浸透圧の問題に置き換えられる場合が多く、栄養分が多すぎるという話にはなりそうにない。さらに、蕩尽能力と云う概念は、残念ながら微生物学の中だけでなく現在の生物学のパラダイムの中に存在しないのである。存在しないものを研究テーマとする変人はなかなかいないだろう。

 段々、気違いブログと呼ばれそうな雰囲気になってきた。飽食と蕩尽 10 に続く

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