有機化合物の中には、分子式が同じであっても構造が異なる化合物群はいくらでも存在する。そうした関係にある化合物群を異性体という業界用語で表すのだが、この異性体にもいろいろな種類が存在する。高校の化学に於いて一応教えられてはいるのだが、幾何異性体、光学異性体といわれて、すぐに説明できる人はあまり多くはない。
構造異性体を含めて、それぞれの説明は他に譲るとして、ここでは炭素-炭素間の二重結合に由来する幾何異性体、正式にはcis-trans異性体について少し述べてみたい。繰り返しのようだが、この異性は炭素炭素間の二重結合の性質に由来する。余りに初歩的な話をするのはこのブログの読者に対して失礼に当たるだろう。そこで、二つの炭素上にある混成に参加していないp軌道の間で成立しているπ結合の性質故に、炭素-炭素を軸とする回転ができないことを既知の知識として扱うことにする。高校に於いては、この幾何異性の例としてマレイン酸とフマル酸を採用する場合が多かった。
記憶が定かではないが、2-ブテンを例として採用した教科書があったような気もする。cis-trans異性体は、二重結合に対して主鎖となる炭素骨格が同じ側にある場合をcis体、反対側にある場合を trans体としている。IUPACで定められている置換基の順位則を用いて、この定義をもう少し拡大したEZ表示法が上位規則として存在するのでどこかで目を通しておいて下さい。
そこでcis-trans異性体の話だが、構造が違うのだから当然それらの性質も異なる。マレイン酸のpKa 1、 pKa2は、それぞれ1.84 、5.83 フマル酸の pKa1、pKa2は、それぞれ3.07、4.58 であるし、マレイン酸は加熱すると容易に無水マレイン酸を形成するが、フマル酸は昇華してしまう。水に対する溶解度も違うし、融点も違う。従って、生物に対する作用も異なるわけである。アブシジン酸であっても2- cis体が植物ホルモンとして働くのであって、2- trans体はそうではない。生物にとってcis-体とtrans体は別のモノである。
酵素の活性部位や情報伝達系で働く受容体の多くが、cis-trans異性体だけでなく、もっと似ているように見える光学異性体を識別するのだから、cis-trans異性体間で生理活性に差があっても何ら不思議ではない。とはいえ、いま騒がれているトランス脂肪酸問題は、どこに問題があるのかいまひとつ理解できない。ようやく来たかとニンマリしている読者もいると推察するが、誰が何の目的でこの騒ぎを煽っているのか理解に苦しんでいる。
原因の1つはtrans 脂肪酸にある。trans 脂肪酸とは何であるかについて、何となく分かり難いのである。ヒトが摂取する不飽和脂肪酸には、多くの種類がある。例えば、ミリストレイン酸《(Z)-tetradec-9-enoic acid》、パルミトレイン酸《(Z)-hexadec-9-enoic acid》、オレイン酸《 (Z)-octadec-9-enoic acid》、バクセン酸《(Z)-octadec-11-enoic acid》、ガドレイン酸《(Z)-icos-9-enoic acid》、エイコセン酸《(Z)-icos-11-enoic acid》、エルカ酸《 (Z)-docos-13-enoic acid》など1つの二重結合を持つ不飽和脂肪酸類、リノール酸《(9Z,12Z)-octadeca-9,12-dienoic acid》、エイコサジエン酸《(11Z,14Z)-icosa-11,14-dienoic acid》、ドコサジエン酸《(13Z,16Z)-docosa-13,16-dienoic acid》など2つの二重結合を持つ不飽和脂肪酸類、α-リノレン酸《(9Z,12Z,15Z)-octadeca-9,12,15-trienoic acid》、γ-リノレン酸《(6Z,9Z,12Z)-octadeca-6,9,12-trienoic acid》など3つの二重結合を持つ不飽和脂肪酸類だけでなく、4つの二重結合を持つアラキドン酸やステアドリン酸、5つの二重結合を持つエイコサペンタエン酸やイワシ酸、6つの二重結合を持つドコサヘキサエン酸やニシン酸、等々である。
一つの二重結合は一対のcis-trans異性体をもたらすことから、異性体の数はモノ不飽和脂肪酸では2、ジ不飽和脂肪酸では4、トリ不飽和脂肪酸では8、テトラ不飽和脂肪酸では16、5つの二重結合を持つペンタ不飽和脂肪酸では32、6つの二重結合を持つペンタ不飽和脂肪酸では64となる。的屋の云う1枚が2枚、2枚が4枚、4枚が8枚・・・・の世界である。さらに、1つの食物に1種の不飽和脂肪酸が含まれているわけではなく、何種も含まれている。さらにさらにだが、各不飽和脂肪酸の生物に対する効果も千差万別であろうことは容易に推定できる。トランス脂肪酸と云う括りは、どのようになっているのかが何とも分かり難い。
もう一つの原因は、こうした把握が難しいトランス脂肪酸が、心筋梗塞、狭心症、気管支ぜんそく、アレルギー性鼻炎、アトピー性皮膚炎、認知症やパーキンソン病、さらに高血圧、糖尿病をも引き起こすという障害側の多様さにある?一説では、LDL(悪玉)コレステロールを上昇させ、HDL(善玉)コレステロールを低下させる効果もあるそうだ??(この咄にとって都合の悪い話だが、動脈硬化学会は、今年の5月に生活習慣の改善(たとえば油を控える)では、コレステロール値の改善はできないと発表している。(http://www.j-athero.org/outline/cholesterol_150501.html 参照)
まあ過剰に摂取した場合の問題という但し書きはあるにしても、トランス脂肪酸の種類が多すぎるだけでなく、引き起こす疾患の種類も多岐にわたる。疫学的な調査の結果であると云われるかもしれないが、ごく最近まで「植物性脂肪は体に良く動物性脂肪は良くない」とされきた“常識”を否定するものである。だが、この“常識”もまた、何らかの実験あるいは調査を基盤としていたのではないのか。この部分の検証・評価なしに、突然、ちゃぶ台をひっくり返すような説明をされても、「この裏には何があるのかな」などとつい邪推しまうのである。そう云えば近頃バターが不足している。TPP絡み? いえ、別に政治の話をしているのではありません。
動物性の脂質は体に悪いと言われてきた頃、私はバターを食べ続けていた。大した量を食べるわけではない。人生も、先がそれほど長いわけではないだろう。旨い方を食べ過ぎない程度に楽しんで食べればよい。厚生労働省が、ささやかな個人的嗜好に口を挟みすぎることの方がおかしいと思っていた。もっと大事なことがあるでしょう。心を入れ替えて働きなさい。(更正労働省とはそんな意味?)そんな私が、トランス脂肪酸の問題が話題になり始めた頃に考えを変えた。マーガリンにしたのである。
子供の頃、給食には半分溶けたマーガリンしか出なかった。家庭でもバターモドキのマーガリンを食べ続けてきた。高校時代の弁当には、マーガリンを引いて焼いたベビーハムがはいっていた。浪人中、天神3丁目の下宿先で食べた朝食、高校生だった下宿先のお嬢さんが出してくれた、マーガリンをタップリ塗ったトーストの味をまだ覚えている。団塊の世代の青春とともにあったマーガリン、憧れの「帝国ホテルマーガリン」、それをあやふやなデータを基に貶めるとは何事だと考えたにすぎない。そしていま、いつも少数派の冷蔵庫には、「バターのようなマーガリン」が鎮座している。(田舎のスーパーには、帝国ホテルマーガリンはおいてないのです)