歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝 2

  動物において生産物の廃棄という観点から論じるとすれば、呼気、尿、汗、糞便、垢を考えるべきだろう。呼吸と云えば酸素の取り込みをイメージすることが多いが、これは正しくない。吸気で酸素を取り込み、呼気で廃棄物である二酸化炭素を捨てている。どれくらいの量を捨てているか。体重50㎏の成人の呼吸量は400〜500 mlといわれている。1日に換算すると大体13,000 Lである。吸気中の二酸化炭素濃度は0.038 %、呼気中の二酸化炭素濃度は約4%であるから、吸気中の二酸化炭素0.038%は無視してよい範囲にある。そうすると、ヒトが1日に排出する二酸化炭素は520 Lで、重量にするとほぼ1㎏となる。これを炭素量に換算すると270 gに相当する。これを言い換えれば、呼吸とはエネルギー産生のために酸素約700 gを取り込み廃棄物である二酸化炭素 約1,000 gを捨てるシステムであるといえる。物質量としては二酸化炭素のほうが多いのである。では、二酸化炭素が捨てられなかったらどうなるか?極めて短時間で炭酸ガスナルコーシスを起こし、呼吸停止、そして死に至る。

  今一つは水の問題である。水は飲まなければならないではないか。水の廃棄とは何事だと云われそうだが、少し観点を変えたい。1日に、ヒトは尿として約1.2 L、(面倒なので約は省略する)糞便中の0.1 Lを捨てているように見られるが、そうでもない。実は呼吸によって0.4 L、皮膚からの蒸発によって0.6 Lの水が失われている。従って排泄される水の量は、2.3 L /日ということになる。大まかな数字だからそれはそれでよいのだが、内訳に問題がある。例えば1分子のブドウ糖、これが二酸化炭素まで酸化されると38分子のATPができると簡単に言われるのだが、この時6分子の水と6分子の二酸化炭素も生成する。このようにして生成する水のことを代謝水あるいは燃焼水と呼ぶが、この代謝水の1日当たりの生成量は0.3 L程度である。我々が尿として排泄する水2.3 Lの中で0.3 Lはエネルギー代謝に伴う廃棄物である。この代謝水は使えないわけではないので、我々が摂取する水は2.0 Lでよいということになる。要するに再利用しているので目立たないとはいえ、1日0.3 Lの水が捨てるべき廃棄物として生産されていることを意味する。各数値は、かなり大まかな値として丸めているので、その点は大目に見て欲しい。

  窒素はどうか?成人は1日当たり約30 gの尿素を尿中に排泄する。窒素に換算すると14 gに相当する。これも捨てている。窒素に関して、本来の廃棄物はアンモニアである。このアンモニアは毒性が高いため生体内に貯めるということはできない。硬骨魚類は、水に溶けやすいアンモニアをそのままエラから水中に捨てる。オタマジャクシもアンモニアで捨てる。軟骨魚類と親のカエルは尿素で捨てる。水から上がり卵生という繁殖戦略をとった爬虫類と鳥類は、水に溶けない尿酸の形で捨てる。我々は哺乳動物は尿素として捨てる。昆虫はアラントインとして捨てるものの、サナギの期間は尿酸に変換するという。要するに、水利用の容易さと捨てる化合物の水溶性がリンクしているわけである。細かいことはどうでも良いが、とにかく廃棄物であるアンモニアを捨てないと生きてはいけない。何しろアンモニアは、悪臭防止法の定める特定悪臭物質であり同時に劇物に指定されている。濃度が高まるとpHが高くなると同時に分子量が小さいため浸透圧への影響も大きい。生物は、その歴史の中でアンモニアの捨て方を試行錯誤してきたようだ。まあ、ホンオフェと呼ばれるアンモニア臭のきつい発酵食品もあるそうだが。

  動物が廃棄物を捨てる行為を排泄と呼ぶと考えていいのかどうか知らないが、通常、排泄物という言葉はウンチを主体に考えていることが多い。だが、これは食物中の消化できないものと、外界である消化器内で繁殖した微生物が通過してきたに過ぎない。生物学的に見れば、ウンチの大部分は微生物の死骸と通過物であり本来の意味での廃棄物ではない。

  余談だが、マスコミにおいて「生成する」という動詞が、他動詞的に使われる例をよく見かける。我々の世代は、「生成する」は自動詞として使っていたように記憶している。初めて、他動詞的用法にであったのは、オーム教団によるサリン事件の報道である。凄い違和感を感じたことを記憶している。その後、この使い方が増え、市民権を得てきたようだ。○○を生成するという他動詞的な云い方に違和感を感じる人は、どれくらいの割合になるのだろう。私が古いのかもしれない。いわゆるサ行変格活用をする能格動詞に当たるのかもしれないが、ちょっと引っかかってしまう。

  さらにもう一つ、学会の講演の結論部分で使われる「○○が示唆されました。」という表現にも違和感を持っている。責任のありかが分からない。「○○を示しています」、もっと簡単に「○○と考えました」と言えないものだろうか。示唆されるという表現では主語が何となく分かりにくい。あなたの先生が「こういうことかも知れないね」と云ったので、その先生に対する尊敬語としての使用かと疑うこともあるくらいだ。だが、先生は発表者に含まれているに違いない。従って、尊敬語としての使用ではないだろう。そうであれば、この「示唆されましたは」は、「そう思われる」という意味での使用だと理解せざるを得ない。しかしながら、示唆という言葉には、示すや考えるという表現より弱い蓋然性しか含まれない。「仄めかす」あるいは「暗示する」というのが最も近い言い換えだと思うが、それでは学会発表にはそぐわない。

                        一次代謝と二次代謝 3 につづく

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