歴史生物学・・・一次代謝と二次代謝

   そろそろ、全体を通しての本論に入りたいと思っている。思ってはいるが、いまちょっと困っている。何かを書こうと思う度に、「これは何処かで書いたのではないか?」という疑念が起こってくるのである。確かに、いまから書きたいと思うことを補強するために、アブシジン酸について語り、多糖類について語り、ジベレリン・リグニンについても語った。植物の色素についても語った。その中に、これから書こうと意図している考えの断片が存在する。その時点ではそうした断片を書かずして、各論は成立しなかったと思う。今後、話を進める上で、ある程度の繰り返しは避けることができない。それはよく分かっている。少しだけ躊躇があるとすれば、この筆者にはついに惚けの症状が出た。同じ事の繰り返しを始めたと推測されることに対してである。とはいえ、確かに物忘れは酷くなっている。人生の3分の1については記憶がなく、覚醒している残りの半分以上の時間は忘れ物の捜索に費やしている。まあ、そういう状態で書くものとして、読んでもらえればそれで良い。

  さて、生物はエネルギー源と物質源を外界に依存している。従属栄養生物と定義される生物においては、これは自明のことである。他の生物の生産物に従属しているわけである。一方、植物、光合成細菌、化学合成細菌などの独立栄養生物は、独立という言葉から外界に依存することなく生きているように受け取られがちであるが、それは全くの見当違いであろう。独立栄養生物であっても、エネルギー源とともに、炭素源、水素源、酸素源、窒素源を始めとして体を作るのに必要な全ての成分を、やはり外界に依存している。ただ、取り込む成分の、物質としての複雑さのヒエラルキーが異なるだけである。さらに、よく勘違されているのだが、生物は従属栄養生物と独立栄養生物という二つのカテゴリーに分けられる訳ではない。概念としての完全な従属栄養生物と完全な独立栄養生物の間に、従属度、言いかえれば独立度の異なる生物が途切れることなく分布しているのである。これは、言葉では簡単に定義できても、実態としての生物がその定義についてこないというだけの話である。いや云い方を間違った、連続している生物現象を、不連続な概念で切った事に問題があるのであり、生物に文句を言っても始まらない。

  ただ、この形の議論においては、決して表に出ることのないもう一つの問題が存在する。“エネルギー源と物質源があれば生物は生きてゆけるのか”という問題である。現在の生物学教育において、この問題に触れることは殆どないようだ。しかしながら、エネルギー源と物質源が存在することは、生物の生存にとって必要条件にすぎない。外界は、生物の必要なエネルギーを供給し、体を構成する物質を供給しているのだが、同時に生体の活動に付随して生成する生産物とエントロピーを、廃棄物または熱として廃棄する「捨て場」としての役割を担っている。この十分条件となるエントロピーの捨て場としての意義については、今までほとんど評価されてこなかった。しかし、外界の果たすこの「捨て場」としての役割は、資源を供給するという役割と比べたとき、重要さにおいて軽重はない。現在までの科学界では、エネルギーを使って生体成分を構成していく、いわゆる生合成に焦点が当てられ、生産物や熱の廃棄の問題については、薬物代謝などほんの少しの例外を除けば、常に無視されてきたように思われる。この議論は、生産を偏重してきた現代文明批判としても成立すると考えている。

  もちろん、ミクロスケールの生物においては、細胞内で発生した熱はすぐに外界に流出するであろうし、反応生成物も濃度勾配に従い細胞外に拡散するに違いない。つまり、生物のしめる容積に対し表面積が十分に大きい場合は、熱と反応生成物の廃棄は大きな問題にならないため、我々の注意を引かなかったであろうことは理解できる。しかしながら、生物が多細胞化し、生合成の能力を増大させていく過程において、この体内で生成した熱と生産物をいかに廃棄するかということは、その重要性において先に述べた必要条件と同等の重みを持つ。熱に関しては、生産される熱をどのようにして体内に保持し、どのように体外に捨てるかという矛盾した目的を満たす体の設計が重要になるであろう。

  いつものことだが、タイトルと内容が一致しない。しばらく待って下さい。漸近線のように時とともにタイトルに寄り添うよう努力します。

                        一次代謝と二次代謝 2 に続く

カテゴリー: 未分類 パーマリンク