遠くから見たSTAP細胞

  「STAP細胞に関する論文の問題」が燃え上がっている。1月の終り頃だったと記憶しているが、Natureにこの論文が掲載されたというニュースで世の中は沸き立っていた。職場だけでなくいろんなところでこの論文の凄いところはどこにあるのかという質問を受けた。未分化の細胞で特異的に発現するOct4遺伝子のプロモーターに緑色蛍光蛋白を発現する遺伝子配列をつないだ遺伝子をもつマウスを作り、その脾臓から取ったリンパ球を弱い酸で処理するという単純な方法で、リンパ球が初期化された未分化な細胞が得られることを、緑色蛍光タンパク質の発現によって確認したことだ。などと云ったところで、一般の方には理解してもらえない。結局は、マスコミと同じレベルでの説明をし、今からどんな細胞にでもなれる幹細胞と似た細胞を、簡単に作る方法を見つけたのが凄いと言わざるを得なかった。

  ただ、この説明をするとき、私の発言に熱気が感じられなかったらしく、何か問題でもあるのかと尋ねた勘の鋭い人もいた。iPS細胞の研究にしろ、STAP細胞の研究にしろ、研究の方向はガンの治療であり、損傷した臓器・器官の製作と移植であり、老化した臓器、器官の入れ替えであるようだ。

  云うまでもないことだが、これらの研究に於いては、命をどう捉え、何時、いかに、そして尊厳を保たせて死なせるかという観点は希薄なように思える。死は医学の敗北であるようだ。しかし、私にとって死は敗北ではない。役割を終えた個体が次の世代にニッチを譲るだけことであろう。臓器移植というとても新しいとは思えない、免疫抑制剤に頼り切った医療技術を褒めそやしていた人達が、褒める対象を変えただけではないだろうか。

  私は臓器移植に対して今も反対である。免許証の裏には「臓器は提供しない」の部分にチェックを入れている。もちろん、私が危ない状況になってもヒトからもらう気もない。仏教徒として、時が来れば死ぬのが当然と考えている。死ぬのが当然と考えている私にとって、臓器と器官を入れ替えてまで生かそうとする医療は、はなはだグロテスクな医療としか思えない。とはいえ、他の人がどうしても生きたいと考え行動することを頭から否定できるかと考えると、そこはちょっと考えてしまう。

  ただ、脳死がどのような状態かを全く知らない人に、安易に移植を誘導するコマーシャルは実に嫌だ。過去、多くの学生や社会人に脳死とはどんな状態なのかと聞いたことがあるが、正しく答えられた人は殆どいなかった。全脳死と植物状態の区別がつかず、脳幹死や深昏睡に至っては聞いたこともない、ましてやそれらの判定基準も判定方法も知らない人が、何故脳死という概念について賛成したり反対したりできるのだろう。

  臓器移植を認めないと世界から遅れてしまうという雰囲気の中で、平成9年に臓器移植法が成立した。この法律が臓器移植を可能にすることを目的にした立法であったがために、死をどう捉えるかという点での議論は不十分だったと思う。それが脳死臨調の答申が両論併記となった原因であったのだろう。私はここにおいても少数派、少数意見の方にシンパシーを感じている。

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