Myrmecophyte

  化学生態学(Chemical ecology)という学問がある。生物と生物の間、生物と環境の間で起こる現象を化学的に理解しようとする学問である。使われる頻度はいくぶん低いとはいえ生態化学(Ecological chemistry)という学問も存在する。用語的に云えばこちらの学問のほうがより化学的側面が強い。学生だった頃、ハルボーン著「化学生態学」、高橋信孝著「生理活性天然物化学」、J. A. Bailey & J. Mansfield (著) 「Phytoalexins」などを読み、複雑怪奇な生物間の相互作用と多岐にわたる化合物群に魅惑・幻惑されながらも、矛盾と混乱にみちたアドホックな説明に違和感を感じていた。

  アリ植物(Ant plant, Myrmecophyte)という概念がある。一般的な理解のためには、ウィキペディアで「アリ植物」の項を見てもらえばよいだろう。但し、ウィキペディアでは論点が少しばらついているし、分かり難いと感じる方もいるだろう。http://www.biol.tsukuba.ac.jp/~algae/BotanyWEB/ant.html のサイトには、もう少し簡潔にまとめた説明がある。その中には「最も単純な例は、アリに餌を与えてガードマンとして雇っている例である。葉柄などにある花外蜜腺から分泌される蜜を目当てにアリが集まる現象はさまざまな植物で見られる。」と云う例が示されているし、「より親密度が高い例として、アリ植物 (ant plants, myrmecophytes) とよばれるものがある。トウサンゴヤシ属 (ヤシ科) やオオバギ類 (トウダイグサ科)、アカシア属 (マメ科) の中には、茎の一部が変形し、そこにアリが巣をつくっているものがある。これらの植物も花外蜜腺や脂肪体をつくってアリに食物を供給しており、ガードマンとしてのアリの利用がより進んだものだと思われる。またアリは食植性の昆虫を排除するだけではなく、そのアリ植物にとって不利益になる (光の奪い合いなど) つる植物や隣接する植物の葉や枝を切り落としてしまうことまでするらしい。」という記述がなされている。

  続いて「ただし植物にとってアリがガードマンとなっているという説は疑問視されることもある。もともと食植性昆虫はそれほど多くないという報告もあり、アリのガードマンとしての有効性はそれほど高くないのかも知れない。」とも書かれている。この疑問は、この現象を歴史的に考えれば当然起こってくる疑問であろう。アリ植物という概念形成における根本的な誤りは、アリを集めるために植物が蜜や脂肪体を提供していると考える部分にあると思う。

 植物が分泌する物質を食べに来ているに過ぎないアリの、単なる餌場を守ろうとする行動を、寄主植物保護行動と強引に読み替えることでのみ成立する概念にすぎないと考える。

  このアリ植物という定義は、何度読んでもどこか胡散臭い。 花の蜜線に集まるアリを見る場合があるが、この場合は虫媒(entomophily)とか盗蜜(nectar robbing)という別の概念で説明される場合が多い。この変幻自在な立ち位置の変更が気にくわない。確かに、あるアリとある植物に視野を狭めてしまえば、アリ植物として語られた見方ができる場合があるかもしれない。しかし、この定義を少し拡張しようとすると、とんでもないことが起こってくる。

  例えば、人がイヌに残飯をやる。イヌは人をホストであると捉え、他の生物からの攻撃からヒトを防御する。そういう場合、この人をどう呼ぶか。アリ植物という命名法に従えば、その人はイヌ人間と呼ばれることになろう。あるいは、アブラムシ(ゴキブリではない)は吸汁した篩管液中の過剰な水分と糖分を「甘露」として排泄する。これがアリの好物であることからアリは外敵からアブラムシを保護すると云われている。いわゆる、アリとアブラムシの共生といわれる現象である。ではこのような行動をとるアブラムシを、アリアブラムシと表現するか。どこかおかしい。アリはアブラムシが増えすぎると、これを間引いて食べるという。そうなると、まるでヒトとウシの関係と同じになる。共生という概念さえ揺らいでしまい、家畜という概念に当てはまりそうだ。

  ある現象に関与する生物の行動を、一つの概念—例えば共生—で説明することを試みる。それは悪いことではない。科学における仮説とはそういうものだ。次に、その仮説が成立するかどうか、多くの実例を観察する。ここまでは良いのだが、次のフェーズにおいて仮説と実例の主客転倒が起こってしまう場合が見受けられる。仮説が美しく魅惑的であればあるほど、仮説に合わない例の切り捨てが起こるのである。そして、恣意性におかされた集合間の擬似相関に基づく間違った概念が構築されるのである。

  要するに理由付けの時系列が間違っている。植物が、アリを呼び寄せるために蜜を出すのではなく、蜜を分泌したからアリが来たに過ぎない。アブラムシは単なる排泄をしただけである。その後、アリが来たのである。ここの時系列認識のおかしさが、その後の錯綜した議論の原因となっている。

 ヒトの行動には意図が存在する。従って、最初の行動であっても意図に即した解釈が可能であろう。しかし、生物のとある行動にはいくぶん違った解析・評価が必要であるに違いない。それにしても、なぜ植物は蜜を分泌するのだろう。ここに真の問題がある。

  何はともあれ、私が提唱している歴史生物学においては、生起する現象の時系列を重視する。時系列を重視する視座からみると、今まで行われてきた生物間の相互作用に対する説明が崩壊してしまう場合が少なくない。これらについて、生起する現象の時系列を基礎に再構築する作業は、私一人の手に負えるとは思えないが、行けるところまでいって、そこで反省すればよい。お前の辞書に反省という言葉があるのかい?という揶揄はあるにしてもだ。

カテゴリー: 未分類 パーマリンク