閑話休題

  光の春という表現がある。立春から春分までの時期、気温はまだ低いとはいえ、時折射しこむ陽光の明るさに春の息吹を感じる瞬間を捉えた言葉であろう。光の春という言葉が成立するなら、光の夏という言葉はないのだろうか。極めて安易だが、グーグルで「光の夏」を検索しても、私の想いに合致するものは無いようだ。「光の夏」という言葉のつながりから浮かんでくる心証風景があるとすれば、五月晴れの下、湧き上がる黄緑色の若葉を照らす目映い光である。

  急に現実的な話に戻るが、この時期の紫外線強度は盛夏の頃と殆ど変わらない。その紫外線の下で咲き乱れる花々は、どのようにして紫外線傷害を回避しているかとの問題意識を底流にして、植物の色素についての文章を書いた。5月5日と6日に公開した「花の色は移りにけりな1〜6」である。ブログを書き始めたばかりで十分な用意もなく論を尽くしたとは言い難いが、植物色素に対する基本的考え方は間違っていないと考えている。本来は9章としてここに入れる予定だった。連続性も考えて、再度これ以降にアップすることにする。興味のある方は読み返して欲しい。

  さて、このブログページの右上に、Noisy Minority and Silent Majority というフレーズを入れている。別に政治的意図があって入れたわけではない。Silent Majorityとは、1969年のベトナム反戦運動が盛んであったアメリカにおいて、当時大統領であったニクソンが使ったフレーズである。声高に反戦を叫ぶ若者達に対し、静かに私を支持してくれる穏健な多数派の国民を意味していた。Noisy Minorityはこの反対語であり、少数派でありながら声だけは大きいグループを意味する。なかなかにいろんな使い方ができる政治的用語である。

  生物の体内で生起する多種多様な化合物群を、まとめて代謝物(Metabolites)と読んでもいいだろう。代謝物を分類する方法にはいくつかの種類がある。もっとも良く使われるのは、生合成のプロセスを基準とするものである。これは酢酸-マロン酸系に属する、あれはテルペンだ、それはシキミ酸経路に由来するなどとして、化合物群をグループ化していく。この分類においては、構造的類縁性は局所的には担保される。従って生理的活性についての類縁性についても、局所的には成立するが、大局的には全く成立しない。

  代謝物を一次代謝物、二次代謝物として、生理的意義に基づいて分類することもよく行われる。この分類の説明は、何気なく聞くと何となく分かった気になるのだが、この概念に従って代謝物を分類することははなはだ難しい。生存に関係ないと思われる二次代謝産物の連なりの後に、重要な生理活性を持つ(一次代謝産物)が忽然と現れるのである。まあ、そういう堅いことは言わずに、歴史的経緯もあるし、という暗黙の前提の上に成立している概念のようだ。

  もっとも分かりにくいのが、代謝物を中間代謝物(中間体)と最終代謝物(目的物質)に分類する方法である。自らが問題として設定した代謝物を最終生産物とし、そこまでに出現する物質群を中間生産物と規定するこのやり方においては、A氏の中間代謝物はB氏の最終生産物となって当然である。ここには、代謝物全体を見るような総合的視点は欠片も存在しない。

  これ以外にもいろいろな捉え方があるが、どれも帯に短したすきに長しという状態であろう。私も長い間、合理的な分類法はないのかと模索を続けてきたが、全てを矛盾なく包含するような精確な分類法は思いつかない。寧ろ、そんなものはないと考えるのが正しいのではないかと思い始めている。とはいえ、考え続けてきた結果が何もないでは寂しいので、一つだけ紹介する。植物についての話となるが、代謝物を植物中の存在量と生物活性を指標として分類するという方法である。

  植物の代謝物を、セルロース、ヘミセルロース、リグニン、デンプンなどに代表される多量に生産され蓄積される物質群と、オーキシン、ジベレリン類、サイトカイニン、エチレン、アブシジン酸などに代表されるごく少量しか生産されず蓄積もされない物質群に分けたのである。今更といわれかねない馬鹿馬鹿しい分類だが、この分類に隠れている現象をよくよく考えると、まんざら馬鹿馬鹿しいとも言えない。色々な代謝物がもつ植物自身に対する生理活性を加味して考えると、低活性あるいは無活性の代謝物であれば少量であろうと大量であろうと存在してもかまわないが、高活性の化合物は少量あるいは微量でないと存在は許されないに違いない。ある代謝物の持つ生理活性が、その物質の存在量に縛りを掛けているのである。こうした捉え方はなかったように思うが、どうだろうか。

  研究という立ち位置からこれらの代謝物を見た場合、最初にテーマとして選ぶのは微量で高活性の代謝物を選ぶのは当然のことであろう。いわゆるNoisy Minorityとして分類される物質群である。一方、大量に存在するにもかかわらず明らかな生理活性が認められないために、軽視され続けてきたリグニンやデンプンのような物質群がある。「リグニンやデンプンを軽視してきたことはない、重要な生物資源ではないか」とする異論があるかもしれないが、それは他の生物(人を含む)にとってという極めて功利的な意味での興味であったろう。視点が違うのである。植物にとってのリグニン、デンプンという立場からの研究量が、植物にとっての植物ホルモン類という研究の量と比すべきもないのは明らかである。こうした低活性あるいは無活性で多量に存在する物質群をSilent Majorityと比定したわけである。

  Silent Majorityは、穏健で異論を吐くでもなく黙々と働き納税する大衆を指す。では、Silent Majorityと比定された物質群は何をしているのか。この問いこそが、私が永年持ち続けた問いであった。何故そういう問いを持つのか?それは、これらの物質に対して現在行われている説明のなかに、嘘と論点のはぐらかしを感じたからである。追々、この問題には触れることにしよう。それにしても永年生きてきた巨樹は素晴らしい。いかに巨大な幹であっても、生きているのは周縁の2〜3 cmにある組織に過ぎない。リグニンやセルロースが主体となるその内側は死んだ組織である。千年を超える樹齢を持つ巨樹は、千年以上にわたって自らの死と同居してきたわけである。光の夏、死を内包した巨樹の、生き生きとした姿は哲学的でさえある。

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