全部妄想です(追記あり)

 信じてもらっては困る。もし万一読まれたあとで、そうだそうだと同意された後、それが原因で被害を被ったとしても、当方では全く責任はもてない。唯々、白昼夢のように脳内に浮かぶ泡沫のような妄想を書いているだけである。

 筆者は、生まれて40年あまり浄土真宗の門徒であった。この間の宗旨は生まれた時から決まっていたのだから仕方ない。私に選ぶ権限などある訳がないし、成人してからもそれでいいやと思っていた。三十歳を過ぎた頃、親父が祖父の出身地である秋田の親戚に問い合わせたところ、本家の宗旨は浄土宗であった事が明らかになった。聞くところによれば、本家は昔秋田市で造り酒屋をやっていたという。ところが明治の半ば頃に火事を出し没落してしまったため、一族は東北各県や北海道に離散したというのだが、祖父は寒いのがいやだと云う理由で九州まで流れてきたと聞いている。私の祖父は、火事を起こした際に、没落した一家を冷たく見捨てた浄土宗の寺にかなりな反感を持っていたらしい。寒がりの祖父は、九州まで流れて祖母と結婚した後、浄土真宗の門徒となったわけである。親父はそのまま浄土真宗の門徒として暮らしてきたのだが、70歳近くになって宗旨の違いがわかり、すったもんだの末に浄土宗へと宗旨を変えたのである。

 それでどうなったかという事だが、福岡市のある程度名の通った浄土宗の寺の門徒として入れてもらったのだが、後がいけない。70歳を過ぎた人間の願いというか気持ちに全く寄り添ってくれない住職だった。詳しい話をすると営業妨害になるのでここでは書かないが、親父の葬儀、母親の葬儀に際しての対応に、呆れ果ててしまった。その後、ついに絶縁宣言をして門徒を外れ、付き合いのあった真言宗の寺に拾ってもらった。ご住職は無理をして宗旨を変えるなどしなくていいですよと気づかってくれたのだが、私としては元に戻る気は全くなく、空海上人に今後を託す事になってしまった。

 悪くない選択だったと感じている。浄土宗は、法然上人さんが余りにも頭脳明晰過ぎて一寸ばかり近づき難い気がしていた。浄土真宗は、親鸞上人の一途な信仰心がよくわかるとは言え、時として重荷に感じられた、臨済宗は、臨済禅師の融通無碍な自由さに倣うと私は法を超えてしまいそう、曹洞宗、若い頃読んだ道元禅師の著書「正法眼蔵」が余りにも難しく近寄り難い印象だった、などなど、これらの判断が凡人の浅智慧に基づく判断である蓋然性は否定できないとはいえ、どの宗派も近づき難さを感じる存在だった。その点、天才的孤高の求道者でありながらも融通無碍な現実主義者である空海さんであれば、私の我が侭を笑って認めながらも知らぬ間に斧正(誤用かもしれないが、斧で切り込んで厳しく修正するという暗喩として使用)してくれそうな気がしたのである。

 話は飛びまくるが、父は税務署員だった。2年に一回の転勤が常であった。今では公務員住宅が整備されているため当時の状況を知る人は少なくなっているが、当時は自分で貸し家を探さなければならなかった。問題は、税務職員の転勤は現在でも6月1日付けで行われることにある。確定申告が3月15日であるため、4月1日には実施できないということらしい。このことが私の人生に大きな影響を与えたことは間違いない。転校は必然的に9月1日からとなるため、クラスへの溶け込みは難しかった。でもそれは小さな問題である。大きな問題は貸し家である。良さそうな貸し家は3月の段階で埋まってしまうため、6月に残っている貸し家には曰く付きのものが少なくなかったのである。大家の娘が首つりをした木が庭にある家、胃ガンの夫を見捨てて他の人と奥さんが逃げた後、その男性が狂い死にをしたという家、3畳一間で台所は共用の家、大家の事故死した長男が暮らしていた部屋のある家、などなどに、仕方なく住んだことがある。そして現か夢か区別のつかない様々な体験をした。

 様々な体験が真実かどうかは他人どころか本人にもわからない。ただ、体験した人にとっては、それが本人の妄想が為せるものであったとしても、その体験は事実である。どこかで唯物論を信じきれなかった原因がここにあったのかもしれないだけでなく、私の社会認識のあり方に影響を与えていることは否定できない。実はそんなことはどうでも良い、人というものはそうした経験をするものだという立場に立った時、その原因はなんだろうと考え続けてきた。得られた結論は「呪」という概念である。「呪」と「咒」は異体字で、多くの方が呪う・呪詛するなど悪い意味で使われる言葉として認識しているが、本来は、まじない、まじなう、病気や邪気を払うために神仏に祈る行為、または、その言葉という概念を含んでいる。そうでなければ、般若心経の最後のマントラの直前に、以下のような句が存在するはずがない。

故知般若波羅蜜多 是大神 是大明 是無上 是無等等 能除一切苦 真実不虚  故説般若波羅蜜多 即説曰 羯諦羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶

 つまり、善悪は問わず相手に影響を与える「言葉」と理解して良さそうである。「言霊」という概念と通じるところもありそうだ。ある人が言った「ある言葉」が、他の人の中に受け入れられ、沈潜し、時には醗酵、時には腐敗して、いつの間にかその人の行動や精神状況に影響を与える現象と考えていいだろう。ある人が投げつける言葉は、免疫反応における抗原とよく似ているなと考えて続けてきたのである。

 そこでアメリカ、どの国も建国の歴史においては様々な嘘(願望や虚構という意味であり嘘であること自体を批判しているのではない)を書き連ねているのだが、アメリカという国の歴史は200年程度と短いが故に、その嘘が歴史の中に埋もれきっていない。まだ傷口から血が流れ続けている。

 1492年にアメリカ大陸を発見したのはコロンブスでありアメリカという名称の起源はアメリゴ・ベスプッチということになっているのだが、それは間違いである。紀元前1万2000年頃、現在のベーリング海峡がまだ陸続き(ベーリンジア)であった頃にアジア大陸からモンゴロイドが北米大陸へ移動している。パレオ・インディアンと呼ばれる原インディア達はそこを通って南下し紀元前1万年頃には南米の南端にまで到達していたことが知られている。とすれば、新大陸発見は西洋世界にとってのものに過ぎず、れっきとした先住民の存在を無視した記述であることを再確認しておく必要がある。

 その後、1620年にメイフラワー号で入植したピルグリムファーザーズに続いて、多数のヨーロッパ人が移住を始めた。入植した白人が行った先住民に対する迫害の歴史はまだ生々しい記憶として残っている。当時、一千万人を超す人口があった先住民は、居留地へと押し込められ五十万人近くまで減少した。(もっと少ないと云う統計結果もある)さらに、辛うじて生き延びた人々は、インディアンとしての生き方を否定され、アイデンティティを奪われて行ったのである。インディアンが合衆国市民として認められたのは、1924年のことだった。 この辺りの歴史については多くの書籍が刊行されているので、少し読まれてみたらどうだろう。

 合衆国の発展と繁栄は、インディアンの屍の上に築かれたものだったといえるだろう。彼らの持つ恨み、怨念は我々が推測できるようなレベルのものではないだろう。こう書くと黒人であっても奴隷として辛酸を舐めてきたことと比較されるかもしれない。しかし、インディアンの場合は恨みの深さが違うような気がしている。黒人の場合は彼らを駆り集めヨーロッパの奴隷商人に売ったのは、コンゴ王国、ンドンゴ王国などのアフリカの王族であり、彼らは商品である奴隷移民?としてアメリカという異国に移動させられたのである。彼らのアメリカに対する恨みは、アメリカで受けた過酷な差別に対するものだけである。これを「だけである」と表現するのは気の毒であることはわかっている。しかし、インディアンの場合はもっと悲惨である。彼らは彼らが以前から住んでいた土地を奪われ、病気を持ち込まれ、反抗すれば殺され、居留地に押し込まれ、民族のアイデンティティを奪われ、さらに厳しい差別を受けたのである。(現在、インディアンという表現が好ましくないことはわかっているが、差別的意味合いは全く含ませていない。アメリカ先住民などと云う毒気を抜いた表現では、彼らの受けた辛苦に似合わないと思う。またヒスパニック系の人々も、色々と苦労はしているのだがここでは触れない)

 こうして成立したアメリカ合衆国は、第一次世界大戦で勝利し、第二次世界大戦でも勝利、さらに、ソビエト連邦との冷戦を制して世界一の強国としての位置についたのだが、その内部にはいくつもの病巣が巣くっていたように感じている。カート・アンダーセンが「狂気と幻想のアメリカ500年史 上・下」という本を出している。この本は現代のアメリカを考える上で役に立つだろう。私の感覚では、アメリカの滅びの予兆は1960年頃にはすでに見えていたように思う。(カート・アンダーセンの「狂気と幻想のアメリカ500年史 上・下」という書籍、狂気と幻想を否定して理性的に考えろと云う内容のようだが、私が彼の意見に全て合意しているわけではない。アメリカと云う国がそうした惑乱の中にいることの紹介として推薦したに過ぎない。本の中で紹介してある個々の事件に対して、私は彼から批判される側にいる場合が多いことを付記しておく。)

 さて、アメリカにおける公民権運動、これについて正しく包括的に述べるには知識がついてゆかない。一寸ではなく、かなりな分量になるが、日本大百科全書(ニッポニカ)から引用することにする。

公民権運動
こうみんけんうんどう
Civil Rights Movement
 アフリカ系アメリカ人により、1950年代なかばから1960年代なかばにアメリカで展開された、差別の撤廃と法の下の平等、市民としての自由と権利を求める社会運動。1865年の南北戦争終結後、奴隷制は廃止され、憲法修正第14条はアフリカ系アメリカ人を市民として認めるとともに「法の下の平等」を定め、第15条は人種による選挙権の制限を禁じた。しかし、異人種間の結婚禁止といった州法は存続し、1880年代には南北戦争後の改革に逆行する諸制度が南部では設けられた。選挙権制限のため識字テストや投票税が課され、リンチを含む暴力も横行した。またジム・クロウ制度と称される人種分離制度が、学校から墓地まであらゆる施設に広がった。1894年、最高裁判所は、ルイジアナ州における鉄道車両での分離に対して、同等の設備を設ければ、人種別に施設を分離すること自体は合憲であるという判決を下した(プレッシー判決)。この「分離すれども平等」理論は、以後60年にわたり、人種分離を正当化したが、実際は黒人用施設は白人用施設より劣悪であった。
 狭義の公民権運動の始まりは1950年代であるが、アフリカ系アメリカ人の運動には長い歴史がある。1909年に設立された全国黒人向上協会(NAACP)は法廷闘争を重視し、1938年の最高裁判決では、ミズーリ州立大学大学院への黒人学生の入学を勝ち取った。第二次世界大戦中には、市民として兵役といった義務を果たしながらも差別にさらされることへの不満が高まった。1941年、A・フィリップ・ランドルフA. Philip Randolph(1889―1979)によるワシントンでのデモ行進計画に対し、F・D・ルーズベルト大統領は戦時中に限り軍需工場での人種分離を禁じる大統領令を発した。
 戦後、NAACPは、初等教育機関の人種統合へと目標を転じた。公立小学校での人種分離を争点とした1954年のブラウン判決において、最高裁はついに「分離すれども平等」を否定し、学校での人種分離は違憲であると断じた。しかし、判決後すぐに統合が進んだわけではなく、南部白人社会は激しく抵抗した。1956年、南部の連邦議員101名は人種統合への反対宣言を表し、最高裁を非難した。1957年、アーカンソー州リトル・ロックの高校では、黒人生徒の入学を阻むため群衆が高校を取り囲み、生徒を守るためにアイゼンハワー大統領は軍隊を派遣するに至った。1962年、ミシシッピ州では、黒人学生の州立大学への入学手続を知事自身がキャンパスで妨害し、暴動収束までに3名が死亡し多数が負傷した。
 このように、生命の危険にさらされながらも、アフリカ系アメリカ人は運動を続けた。ブラウン判決と並ぶ公民権運動の高まりの契機は、アラバマ州モントゴメリーでのバス・ボイコットである。白人にバスの席を譲らなかったことでNAACPの元秘書ローザ・パークスRosa Parks(1913―2005)が逮捕されたことに端を発するボイコットは1955年から1956年末まで続き、平行した訴訟では、同市のバスの人種隔離を違憲とする最高裁判決が下された。ボイコットの指導者として名を広めたのが、キング牧師である。キングは非暴力主義に基づく直接行動を唱え、その思想は広く公民権運動の柱となった。1957年にキングを議長として設立された南部キリスト教指導者会議(SCLC)は公民権運動の中心組織である。

 学生も公民権運動に大きな役割を果たした。1960年、ノースカロライナ州グリーンズボロでは、4名の黒人大学生によりシット・インと称される新たな直接行動が始まった。飲食店の白人専用席に座り、注文が応じられるまで座り続けるというものである。座り込みは各地に広がり、同年末までに5万人が参加した。さらに、図書館、ホテル、公園などでも同様の抗議が行われた。1961年、シット・インの組織化を図り、南部諸大学の学生によって学生非暴力調整委員会(SNCC)が結成され、公民権運動の主要な担い手となった。
 公民権運動は、奴隷解放宣言から100年後の1963年8月のワシントン大行進、1964年公民権法、1965年投票権法の成立をもって頂点を迎えた。ケネディ大統領が提案した公民権法の成立を求めた大行進には20万人が参加し、リンカーン記念堂前で、23年前にワシントン行進を提唱したランドルフやキングをはじめとする指導者たちが演説した。1964年7月にジョンソン政権下で成立した公民権法は、州権を唱える南部諸州や自治体の抵抗に対して、連邦政府に強い権限を与えた。おもな内容として、識字テスト禁止、公共施設や教育機関での人種統合を促進するための連邦政府の権限強化、雇用差別の禁止などがあげられる。
 しかし、同法成立後も、選挙権行使に対しては役人による妨害から殺害まで激しい抵抗があった。1964年夏、ミシシッピ州では北部の大学生を中心に、有権者登録を助けるフリーダム・サマー運動が展開された。運動家6人が殺害されたが、連邦政府は運動家の保護や政治参加実現のための積極的措置をとろうとはしなかった。1965年3月、より実効性のある投票権法を求め実施されたアラバマ州セルマからモントゴメリーまでの行進には2万5000人が参加した。その結果8月に成立した投票権法は、連邦政府職員に有権者登録の監視権限を与え、その後、南部のアフリカ系アメリカ人の投票率は上昇した。

 さらに、1967年には異人種間の結婚を禁じる州法が最高裁判所で違憲とされ(ラビング判決)、1968年には不動産取引における差別を禁じた1968年公民権法が成立した。1969年にミシシッピ州初の黒人市長が誕生したことが象徴するように、1960年代末以降、投票率の向上によってアフリカ系アメリカ人の公職者が増加した。1990年にはバージニア州で、南北戦争直後の時期を除けば全米でも初めての黒人知事が選出された。また、就職や入学選抜にあたり歴史的な差別を考慮するという、1964年の公民権法に基づく「積極的差別是正政策」(アファーマティブ・アクション)は大学への進学機会を広げ、エリート層の醸成へとつながった。
 こうした大きな成果の一方で、1960年代末には、運動の手段や目標をめぐって、公民権運動を主導した諸団体や指導者の間のほころびも顕在化するようになった。たとえば、SNCCは「ブラック・パワー」を唱え、キングやSCLCが掲げた非暴力主義とは一線を画すようになった。公民権法や投票権法の限界もまたあらわになった。北部では、南部のような法律に基づく人種分離や投票権制限は存在しなかったものの、都市における居住地区の実質的分離や貧困問題が深刻であった。1960年代後半にロサンゼルスをはじめとする都市で暴動が頻発したことはその現れであった。法の下の平等に留まらない、貧困問題といった社会的な不平等の是正策の追求という点でも諸団体は一致しなかった。さらに、ベトナム戦争の激化に伴い、公民権運動の後ろ盾であると同時にアメリカの軍事介入を深めたジョンソン政権への支持、その内政と外交政策の評価についても見解の相違が鮮明になった。こうして、統一行動がしだいに困難になり、公民権運動は収束へ向かった。
[小田悠生]2017年8月21日
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 ここでこの説明内容は、大した問題ではないなどと書いたら怒られるかな。公民権運動と私は、ほぼ同じ時代を生きてきたのだが、いくつか理解できないことがあった。何故、公民権運動にアメリカインディアンが参加しなかったのだろう。もし、公民権運動が人としての権利を求める運動であるとすれば、アメリカインディアンは参加しないはずはない、もし参加しなかったのであればそれは何故か。それ以上に、上の説明中にアメリカインディアンに関する記述が殆どないのは何故なんだろう。一昨年のわけの解らない大統領選においても、BLM(Black Lives Matter)が大きな話題になった。でもそこにアメリカインディアンの影はほとんど見えなかった。アメリカインディアン全国会議(NCAI)、全国インディアン青年会議(NIYC)などによる組織的活動はあったにしても、黒人による公民権運動とは比すべきもない規模のものであったようだ。

 多分、アメリカインディアンはそうした抵抗運動を起こす基盤となる精神的基盤さえ奪われていたと考えている。19世紀末の進歩主義の時代には、インディアンの子供たちは、居留地内外にかかわらず、インディアン寄宿学校と呼ばれる教育施設に収容され、英語を使うことを強制され、民族衣装の禁止、創氏改名、断髪の強制など彼らの民俗的アイデンティティを抹殺するための教育を施されていたのである。その結果として、彼らは公民権運動の流れに乗る力さえ失っていたのではないか。(私はインディアンの文化は大好きである。文化の肌触りがどこか似ている。「今日は死ぬのにもってこいの日だ。」とか「ジェロニモ」、「それでもあなたの道を行け」、「一万年の旅路」などを読みながら、ネイティブ・アメリカンと縄文人の精神文化の共通性について考え、追跡していたが、彼らの過酷な状況についてマスメディアに載ることはきわめて少なかった。)

 お前の宗教遍歴とアメリカインディアン、どこに関係がある、こいつは何が書きたいのだろうなどと思い始めている人がいるのではないか。いまから書きます。怨霊についてです。怨霊といえばオカルトに分類される、そして科学的ではない迷信を信じる無知蒙昧な奴の戯言であると批判を受ける。では怨霊はいるのかいないのか。私はいると判断する。それなら怨霊の存在を科学的に証明しろと云う批判が舞い込んでくるのだが、そんな浅はかな批判に応える気はない。梅原猛氏の怨霊史観と呼ばれるものを、そんなものは科学的ではないと否定するのは簡単であるが、それは彼の作品を理解できない人々の貧しい精神性に因ると思う。藤原一族は曽我氏の一派を扇動して聖徳太子の一族を皆殺しにした。そして、権力を握った。しかし、彼らの心の奥底に沈潜した良心の傷は、何か事件が起こるたびにそれは聖徳太子の祟りではないかと受け取ってしまう。天然痘で死んだ藤原4兄弟の死を、聖徳太子、あるいは長屋の王の怨霊の仕業と捉える心の中に、怨霊は間違いなくいるのである。怨霊とは人の心に在る良心の傷がもたらすものとして存在しているのである。

 アメリカの歴史において黒人が中心になって起こした公民権運動、これは皮膚に口を開けたおできと考えて良い。一方、ネイティブ・アメリカンの問題は表面に吹き出すことなく奥深く侵潤し、アメリカの白人が明確には意識していない精神的な傷となっているのではないか。つまり、インディアンとの間に存在する宗教的問題、経済的問題、言語の問題、習俗の問題などとともに、過去に虐殺された彼らの先祖達の恨みなどを、現在の白人達がどこかで抱えているように思う。「アメリカという国の歴史は200年程度と短いが故に、建国時の物語に書かれた嘘が歴史の中に埋もれきっていない。」と書いたのはそういう意味である。

 一例だが、先住のインディアンを悪党とする西部劇、1950年頃までは年に数十本作られていたのだが(具体的な数字はわからない)、1960年代になると「白人=善、インディアン=悪」とする図式が次第に崩れ始めた。1980年頃以降になると、インディアンを悪党として描く西部劇は全く製作されていない。私はそこに、公民権運動やベトナム戦争に対する反戦運動の底流にあったと思われる白人の良心の疼きを見ていた。世界の表面では、パックス・アメリカーナと呼ばれるアメリカ一強の時代を作り上げたにもかかわらず、その時すでに崩壊の種は蒔かれ発芽していたのだろう。ニクソンショック(1971年)が起こった時、アメリカの覇権はどのように終わるのだろうかと考え始めた。20年くらい前、私が50代の半ばに差しかかった頃だが、アメリカは怨霊によって崩壊するだろうと予想した。でも、それを言えば気違い扱いされるのは目に見えている。一応、科学者として生きていたので、この考えは完全に封印してきたのである。

 十年前でも、いや今でも馬鹿にされるような考えだが、アメリカ合衆国という国は、彼の国を構成している人種、宗教、歴史、政治的立場、経済格差などに起因する怨霊達が、人の心で顕在化して解決しようのない怒りと惑乱が発生し、のたくるような内乱(内戦)による殺戮のなかで崩壊して行くと予想する。大国であるがゆえ、その影響は南北アメリカのみならず全世界に及ぶと判断している。怨霊とは無意識の中に潜む良心の傷、その傷故に人は幻を見てしまうのである。幻に覆われた現実に向かって引き金を引く、その連鎖が限りなく広がってゆくだろう。こうした怨霊を基礎とした見立て故に、私のアメリカ観はかなり歪に見える。それ故に、一般の経済学者や政治学者、あるいは政治家達とは違って、アメリカとの関係はできるだけ関係を薄くしておくのが良い、ビジネスライクに距離をとれる関係が良い、アメリカの持つイデオロギーをそのまま持ち込むのは危険である、そう思っている。ロシアとウクライナとの戦争、原因の多くはアメリカ側に在ると思っているのだが、この戦争はアメリカの寿命を大幅に縮める結果になるだろうな。

 先日、WEFを中心とするグレートリセットの動きを、富裕層から貧困層に対して起こされた逆革命であると書いた。これを現場で推進しているのがアメリカ民主党の左派グループである。嘗て民主党は、アメリカで行われていた人種差別を批判し公民権運動を推し進める政党であったのだが、そこには過去の人種差別に対する贖罪意識があったと思う。ここに、巧妙に潜り込んだのが急進的左派のグループであった。あなた達の過去は間違っていた。贖罪に値する。今まで差別されてきた人々を丁重に扱え、そうしない人々は人として欠陥を持っている。この議論の中にジェンダーに係わる問題が加わり、性的少数者の問題が加わって、アメリカの中核を担ってきた人々が自信を失った状況になった。その弱った心の中で、虐殺され、差別され、排除されてきた人々の怨霊が暴れ始めたのである。その時点で、彼らに対する左派グループの攻撃が始まったようだ。攻撃を革命と言い換えて良いと思うのだが、革命は全体主義との相性がよい。そういう視点に立つと、アメリカの現在の混乱をある程度の整合性を持った形で理解できそうである。但し、理性的且つ科学的な理解であるとは言わない。

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