ABA生合成系に見る時間の残滓 2

 さて、何度も書いたが原則としてルヌラリン酸は苔類以下の下等植物に分布し、生育抑制型の生長調節物質として機能しているらしい。そのルヌラリン酸はスチルベノイドに含まれる。高等植物への道を歩き始めた植物において、スチルベノイドの生合成系が同じ根っこを持つフラボノイドの生合成系へと切り替わったと考えれば、ABAとルヌラリン酸、フラボノイドとスチルベノイドの分布実態をある程度体系的に的に説明できる。天然物化学といわれる分野においては、こんな化合物がある、あんな化合物がある、こんな生理活性があるという情報は数えきれないほどある。

 そして、それらをある生合成系で生産される化合物群の中に分類することで、満足していたようにだ。一つ一つの化合物の存在意義については、代謝系中にある生理活性の高い化合物を選び、それ以前の経路に属する化合物群を○○生合成系の前躯体、それ以降の化合物群を○○の生分解系に属する生分解産物として済ましてきたのではないか。私はこうした体系的ではない説明に満足できなかった。この部分に関しては、ケシが作るモルヒネを例にあげ、「ケシはなぜモルヒネを作るのか? その1~6」で議論しているので、再確認して欲しい。

 少し脱線したようだが、とにかく高等植物、即ち陸生植物への道を辿り始めた植物はルヌラリン酸の生合成系を、陸上へ進出した頃ー言い換えれば苔類から蘚類へ進化した時期に喪失したことを意味する。構造やUV吸収を見るとスチルベノイドも太陽光に含まれる紫外線への防御能を持っていることは間違いない。この紫外線への防御という部分に関しては新たに生合成が始まったフラボノイドが十分にカバーできたに違いない。あれ、よく考えてみればこの現象も、生物の紫外線防御という分野における低分子防御物質の進化(乗り換え)という概念で捉えることができる。この点についてはもう少し考察を深める必要がありそうだ。

 元の文脈に戻る。いわゆる下等植物はスチルベノイドという物質群を失ったわけだが、その際ルヌラリン酸という生育抑制型の生長調節物質なしで、その生を全うできるのだろうか。高等植物におけるルヌラリン酸のエクイバレントと考えられているアブシジン酸の果たすいくつもの大事な役割を考えれば、それはないだろう。私の考えに乗った話だが、スチルベン生合成系がフラボノイド生合成系に切り替わった時、ルヌラリン酸の役割はアブシジン酸へ継承されたと考えるのが合理的判断ではないか。こんなことをいうと仮設の上に仮説を重ねるなと非難されそうだが、この二つの仮説はシークエンシャルな構造ではない。スチルベン生合成系の喪失に伴い、スチルベンが担ってきた機能をどのような化合物群が継承したのかという形の仮説群であり、片方が否定されたからといってもう一つの仮説が崩壊するというわけではない。さて、それではこのスチルベノイド生合成系からフラボノイド生合成系への切り替えはいつ起こったのか?

 この仮説を思いついたのはいまから40年ほど前であった。どうすれば、この仮説を証明できるのかと考え続けてきたのだが、なかなか解決の糸口が見つからず20年を超す年月を過ごした。当たり前の話である。少なくとも数億年前に起こった生合成系の進化に伴う生理活性物質の乗り替えを証明するなど、常識的に考えれば愚の骨頂といわざるを得ない。ただし、当初は単なる思いつきに過ぎなかったとはいえ、本人としては何となくいけそうなと予感はあった。丁度その頃、名古屋大学のM先生と一週間ばかり旅をしたことがあったのだが、彼は笑いながらも私の話を丁寧に聞いて下さった。考えをまとめる上で、適切な質問と助言を頂き、非常に有り難かったのだが、最後にこう言われた。発想は日本人離れしたもので非常に面白い。君の仮説が成立する可能性は十分あるだろう。だが、どうやってその話を証明する。証明するに値する確としたデータを提出できなければ、君はピエロに過ぎない。反論はできなかった。そして近年、ようやく糸口を見つけたと思っている。

 では、乗り換えの時期を絞るにはどうすればよいか? 現在ではアブシジン酸とルヌラリン酸の分布に関してかなり混乱して理解しがたくなってきたが、これには分析技術の進歩も一役買っている。アブシジン酸がシアノバクテリアに分布するといった場合、この事実はアブシジン酸がシアノバクテリア中で制御物質として働いていることを無条件に意味するわけではない。同様に、ルヌラリン酸がアジサイの仲間に含まれるからといって、これがホルモン的に働いているわけでもなさそうだ。この両化合物の分布と生物体内での役割は、当初の考え方で大きく間違ってはいないと思われる。

 とすれば、藻類・苔類から蘚類・維管束植物への進化時期がルヌラリン酸からアブシジン酸への乗り換え時期と重なると推測できることになる。そしてこの時期はまた、植物の上陸とほぼ同時期であることを意味する。植物が陸上にあがったのは5億年ほど前だといわれているのだが、この時代は地球の歴史の中で非常に大きな変化のあった時代である。この時代の少し前、とはいっても約7億3000万年前~約6億3500万年前という長い時間ではあるものの、この間にスターチアンおよびマリノニアン氷河期と呼ばれる全球凍結〔地球全体が凍結した時代〕があったことが知られている。きわめて興味深いのはこの氷期の終結に際して、大気中の酸素濃度の急上昇がみられることである。二度目の氷期の終わりの酸素濃度は、以前の1%から現在とほぼ同じレベルまで急上昇したのである。(私見です。非常に面白いのは動物は酸素濃度の上昇とともに大発展を遂げ、酸素濃度の急減に伴い絶滅を繰り返してきたのに対し、植物は酸素の急減ではほとんど影響を受けず酸素濃度の急上昇に伴い種の減少を繰り返してきたようだ。当たり前だといえば当たり前、容易に推測できることである、)

 太陽からは生物にとってきわめて危険な波長の紫外線が照射されている。我々が、太陽光を浴びても日焼け程度のやけどですんでいるのは、オゾン層のおかげである。二度の氷期を通して、酸素レベルの急上昇が起こったため、地球にオゾン層が成立した。フラボノイドとカロテノイドが紫外線防御において大きな役割を果たしたなどと言ってはいるが、それ以前に起こったオゾン層の成立こそが、生物の陸上への進出の基本的条件だったのである。オゾン層で吸収された残りの紫外線に対して、カロテノイドやフラボノイドなどが有効に働いたのである。

 ここで、興味深いデータが存在する。それはカルコンシンターゼとスチルベンシンターゼのアミノ酸配列間にかなり高い相同性が存在するという事実である。これは、先に述べた陸上植物の出現の話と合わせると、植物の上陸に際してスチルベン生合成系に関与するスチルベンシンターゼに突然変異が起こり、フラボノイド生合成の初発酵素であるカルコンシンターゼに変わったことを意味する。そして生成してきたフラボノイド類も、太陽からの紫外線防御に有効であったことが、その後の植物の進化を可能にしたという物語が描けるのではないだろうか。では、この物語を科学にするにはどうすればいいか。カルコンシンターゼとスチルベンシンターゼが分岐した時間を決めればよい。その時期が植物の上陸の時期と一致するなら、それは先の物語を支えるデータとなるであろう。

 陸上植物は維管束植物とコケ植物に大別される。維管束植物は、ヒカゲノカズラ類、シダ植物と種子植物からなり、陸上植物の中で最も原始的なグループであるコケ植物には、苔類、蘚類、ツノゴケ類からなっている。この3系統のコケ植物と、維管束植物の間の系統関係についてはよく分かっていなかったが、Qiu et al. (2006)は、陸上植物のなかで苔類が最初に分岐し、次いで蘚類そしてツノゴケ類が分岐したという結論を導いている。蘚類とツノゴケ類の分岐の順序についてはまだ異論がありそうであるが、苔類すなわちゼニゴケの仲間が現存する最も古い陸上植物であることは、間違いなさそうである。

 ではどうすればカルコンシンターゼとスチルベンシンターゼの分かれた時期を推定できるか。分子進化学の教えるところによると、いろいろなタンパク質の進化における、アミノ酸1残基・1年あたりの進化速度(アミノ酸残基の置換速度)はタンパクごとに異なるという。最も速いのはフィブリノペプチドで、最も遅いのはヒストンH4である。これは両タンパクの、構造における制約の強さを表わしており、両者の進化速度の間には1,000倍に近い開きがある。とはいうものの、生物種が変わっても、同一種のタンパク質の進化速度はほとんど同じであるという。つまり、表現型レベルで急速に変化している生物群でも、何億年もの間ほとんど表現系が変わっていない生物群であっても、「分子レベルでの進化の速度はほとんど同じである」という驚くべき結論が得られている。

 つまり、多くの植物のカルコンシンターゼとスチルベンシンターゼのアミノ酸配列を求めた後、地質学的に知られている各植物の分岐時期を組み合わせると、各酵素の進化速度が求められる。進化速度が分かれば、分岐時期の分からない生物の分岐時間がアミノ酸配列の比較から推測できるわけである。タンパク質分子を分子時計として使うというこのアイデアは、かなり前から持ってはいたのだが、多数の植物についてカルコンシンターゼとスチルベンシンターゼのアミノ酸配列を決めるなどという実験を自分ではできなかったため、お蔵入りしていたものである。

 10年前にちょっとした事で意地を張り大学を辞めてしまった。大学を辞めたら、少し時間に余裕ができた。必要とする酵素のアミノ酸配列に関するデータベースも充実していたことから、昔の夢に再挑戦することにした。幸運なことに、ゼニゴケについてはスチルベンシンターゼ、それもルヌラリン酸の生合成に関与するスチルベンカルボン酸シンターゼのアミノ酸配列データが存在していた。そこで、水中から陸上に上がった原始植物に最も近いと思われる植物、つまりゼニゴケの持つこの酵素を基礎に思考実験を続けることにする。いやいや、何か大事なことを始めるためには、何かを止めなければならないようだ。この場合、収入の道を大学から年金へと変更したことを意味するのだが、収入は激減した。しかし、自由に使える時間は増えた。これが常識的な判断でないことは十二分に理解している。まあ正常な判断力が幾分かは残っているのだろう。・・・?

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