ちょっとした妄想です 1

  私は誰のものだろう。地球上での長い進化の産物であるとしたら地球のもの、神が作ったものであるから神のもの、私は私であり当然私のもの、まあ色々とあるだろう。私は地球が作った地球のものだと思っている。ここで、多くの人と摩擦とまでは言わないが齟齬が生じる。多くの人は私たちの地球と思っているようだが、私は地球の私たちと思っているからだ。私がもっとも嫌いな言葉は、「地球に優しい」、「環境に優しい」、「自然に優しい」などという言葉なのだが、それらはよく考えれば皆あんた自身に優しい事を意味しているだけじゃないか。本音は私に優しくあれと思っているにも拘わらず、地球に環境に自然に優しいと口当たりの良い言葉で誤魔化しているのが気にくわない。「凄まじい環境の破壊が行われている。このままでは地球とか、環境とか、自然とか言ってはおれない。私に被害が及びそうだ。しかし、私にはどうして良いか分からない。取り敢えず、ちょっと止まって考えようよ。そうしないと私の将来が、いや私と私の子孫の将来がどうなるか分からない。」と云うのであれば理解できるし賛同できる。

 近代文明は私を確立したとする錯覚から生まれた。デカルトの言葉、我思う故に我あり、Ich denke also bin ich を最初に聞いたとき、すごい言葉だなと思った。後にデカルトがフランス人だと知り、フランス語では何というのだろうと調べてみたら Je pense, donc je suis だったのだが、困ったことにどう発音して良いか全く分からない。大学に入って、軽い気持ちでドイツ語だけではなくフランス語も受講したのだが、あまりの複雑さに尻尾を巻いて逃げ出してしまった。そのうち、ラテン語の Cogito ergo sum を覚えてしまってこちらを使うようになっていたのだが、ルネ・デカルトは17世紀の人、ラテン語はローマ帝国の公用語、西ローマ帝国であっても5世紀には滅んでいたのにと疑問を持った。大学2年の頃である。考えてみれば国が滅びたとしても、そこで使われていた言語が消滅する必然性はない。要するに、ラテン語は、自然科学・人文科学・哲学のための知識階級の言語として、またバチカン市国の公用語として生き延びてきたわけだ。

 何を書こうとしていたのか忘れそうだ。妄想であるから忘れた方が健康的なのだが、思い出してしまった。ラウンドアップの話の演繹版だった。ラウンドアップはとても人気のない、いや人気は最悪の除草剤である。さて、ラウンドアップはモンサント社(現在はバイエルの傘下にはいっている)の商品名であり、一般の人はラウンドアップだけに問題があると誤解しやすいので、商品名ではなく化合物名であるグリホサートという用語を用いることにする。

 このグリホサートはもっとも単純なアミノ酸であるグリシンとよく似た構造を持っており、シキミ酸経路中の 5-エノールピルビルシキミ酸-3-リン酸合成酵素 (EPSPS) を阻害して生存に必須は芳香族アミノ酸(フェニルアラニン、チロシン、トリプトファン)の生合成を止め、作物も雑草も無差別に枯らしてしまう。実に良く効く、合成は容易で原価が安い。と云うわけで、世界中で売られることになったわけだ。

 さて、世界でNo1の売り上げを誇っていた除草剤「グリホサート」なのだが、近年発がん性があるのではないかという疑いが強まり、欧米やアジア諸国で使用禁止や規制強化に踏み切る動きが広がってきた。この流れに反して、日本では規制を大幅に緩和しており、どちらの判断が妥当であるのかは第三者には分かり難い。ある程度まとめたニュースがあるので、この観点からの話については以下のサイトを読んで欲しい。       https://news.yahoo.co.jp/byline/inosehijiri/20190725-00135499/         https://agrifact.dga.jp/faq_detail.html?id=104   

 さて、グリホサートは植物のシキミ酸経路にある 5-エノールピルビルシキミ酸-3-リン酸合成酵素(EPSPS) を阻害し芳香族アミノ酸の生合成を止める。従って、独立栄養生物である植物は作物であろうとその他の雑草であろうと無差別に枯らしてしまう。(雑草という言い方は雑草と呼ばれる植物群に対して極めて失礼だと思うが、今のところ他に適切な表現方法がない。名もなき花はない、名も知らぬ花があるだけだ、という牧野富太郎博士の言葉を思い出しながら、良い表現法を考えてはいるのだが・・・)問題はこの無差別に枯らす能力の高さにある。散布時に作物にかかると作物も枯れてしまう。効果が高いからなおのこと問題である。この問題に果敢に挑戦したのがモンサントの研究者達である。

 従来の研究者達であれば、グリホサートという化合物の構造を基礎にして、少しずつ構造を変えながら作物と雑草間の感受性の違いをさがして選択毒性を持つ化合物を見つけるという方法をとったと思う。実際にそうした方法論に基づく研究例はいくつもあった。しかしモンサント社のグループは全く違った切り口からこの問題にアプローチしたのである。このアプローチの方法が後に問題を引き起こすことになるのだが、その是非は別にして、発想自体は画期的なのであったと認めざるを得ないだろう。

 長くなりすぎそうなので、一旦ここで切ることにする。判断に迷う事件が連続していて、落ち着いて話を続ける気になれない。とはいえ骨子はできているので、変な妄想を期待して下さい。

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