祭りの終焉

9/19

 放生会、本来なら今日は筥崎宮の秋祭り放生会の最終日である。放生会は「万物の生命をいつくしみ、殺生を戒め、秋の実りに感謝する」祭りであり、博多では「ほうじょうや」と呼んでいる。修士から博士課程にかけて、大学と筥崎宮が近い位置にあったので、ほぼ毎日出かけていた。露天のおばさんと顔見知りになり、「ちょっと頼むよ」と金魚すくいの店番を仰せ付かるほどだった。お金は持っていなかったのでお弾きを買ったこともチャンポンを買ったこともない。ただ雰囲気を楽しみに行っていただけである。毎年、頻繁に通っていたからかもしれないが、露天商のおばさんから就職の勧誘を受けた。「兄さん、的屋にならんね、神農会の顔役を紹介するよ。」この時就職していたら、今頃何をしているのだろう。漢方薬の原点である「神農本草経」との微かな関わりがこの頃からあったのかもしれない。

 この放生会、今年は規模を縮小して開催と書いてある。あの頃の賑わいは望めそうになさそうだ。神社でもお寺でも、本来お祭りは神様のためのものであり仏様のものである。近頃、人間のためのものであると勘違いしている人が多いが、それは大きな誤解である。多くの若い人は見落としているのだが、多くの神社の主神は祟り神である。これは悪い神という意味ではなく、恨みを含んで亡くなった偉大な人をまつっているという意味である。出雲大社、諏訪神社、御霊神社、多数の天満宮がそうだし、多分宇佐神宮も香椎宮もそうである。曲がって本殿に向かう参道を持つ神社はそうであると考えて間違いない。一年間、本殿に閉じ込められていた神様を神輿に移し、その神輿で大いに暴れ狂っていただく。神輿が激しく暴れれば暴れるほど、次の一年が穏やかな年になるのである。

 そんな話は迷信だよ、馬鹿馬鹿しいと言いきるのは簡単である。私も一応はそう思う。だが、コロナのせいで日本中の神社の祭りが中止あるいは縮小され、神輿による熱狂が日本から消えた。お寺であっても、3月の彼岸供養蔡、4月の灌仏会が中止、盆になるとお寺の対応も変わりオンラインでの供養となったところがかなり存在した。カトリックの人達のミサ、プロテスタントの人達の礼拝ともに、中止となっているのではないだろうか。イスラム教のメッカ大巡礼も規模の大幅縮小が話題に上っていた。コロナウイルス感染症は、人と神々(一神教の人達からは怒られるかもしれないが)との交流の場を無残にも破壊し続けているのである。この病気が単なる感染症では亡く、社会的感染症だと書いたのは、そういう意味である。政府はこの病気を、宗教、文化、慣習、教育制度などを含む社会システムを根底から棄損してしまう、精神に感染する病気として対処しないと、取り返しの付かない事態を招くと考えている。

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