- 2020.08.15 Saturday
- 01:37
北九州にある私が籍を置いていた大学での話である。さて、大学における学科長とは、学科内の教員のスケジュールの把握と誰もしない雑用と雑務のとりまとめを行う便利屋みたいなもので、権限は全くない。命令権のない中間管理職と思って頂ければ良い。これから先の話、事情を知っている人が何人かはいると思うが、具体的な人名等については公にしないで欲しい。私に何が起こったかという個人的な事実を述べるだけにする。
姓ではなく名前の頭文字を使ってH教授とするが、私が6年間続けてきた学科長から退き、この方に引き継いで3週目のことだった。彼は、北九州を流れるある河川に鮎を戻そうという活動を続けていた。ある強い雨の降った次の朝、彼は学生を伴ってアユの遡上調査に行ったのだが、増えた河の水に流され、本人は溺死、一緒に川に入った学生が人事不省の重体となってしまったのである。これから起こってくるだろう種々の問題に対応するためには、学科の内情が分かっている人が適任だという理由で、私がまた学科長に戻されてしまった。
H教授だけでなくその奥さんも完全な無神・無仏論者であったため、葬儀、お別れ会、その他の行事のやり方について、多くの摩擦と軋轢があった。それだけでなく、警察、後には裁判所に呼び出されて、事情聴取や証言を求められた。それは、職務上仕方がないことである。この時期までに学生さんの意識は戻っていたものの、最終的にどこまで回復するかは全く見通せないため、当然だが親御さん達に対しては頭を下げるほか何もできない状況であった。
個人的な話に戻ろう。葬儀が終わって数日ほど経ってからのことである。夜間に我々が入っている建物を巡回する警備員さんが2人で巡回するようになった。さらに数日経つと、2人で、そしてイヌを伴うようになった。建物の外ならまだしも、建物内をイヌ連れで回るのである。どうかしたのですかと尋ねると、いやちょっととか口を濁していたのだが、実は5Fに出るんですと小声で教えてくれた。H教授の研究室は5Fにあったのである。その頃には、H教授が5Fの廊下を歩いているという噂が、学生の間にも広がり始めていた。この手の噂は止めようがない。事務室にも話が流れたらしく、どうしますかと相談されたが、学科長には出るなという権限はないのである。事務側で塩でも盛って下さいと半分冗談で答えていた。ところが事態は冗談では済まなくなってきた。彼の行動範囲が広がってきたのである。
5Fの廊下を歩いていた彼が、4Fの廊下を彷徨うようになり、さらに3Fでの目撃談まで出はじめたのである。疑心暗鬼に駆られた学生達の錯覚として済ませることができれば良かったのだが、そんなある日、H教授が3Fにある私の部屋に入っていったという目撃談が流れてきた。この話が私に伝わる数日前から、私の体調は急降下、咳、頭痛、倦怠感に悩まされ始めていた。話を聞くと、私が発症した日と彼が部屋に入っていった日が一致するようだった。そして、この日から彼の目撃談は消えた。
命令権のない学科長は、突発的事象への対応だけでなく、ありとあらゆる会議に出席を求められ、あずかり知らぬ事に説明を求められ、時にはあるはずのない責任を問われた。さらに彼が引き受けていた他大学夜間部の非常勤講師までやらざるを得なくなり、次第に身体がボロボロになっていった。帰宅しようとして、椅子から立ち上がるのさえ、億劫になっていたのである。こうなれば見栄も恥も外聞もないと判断し、あるお寺の霊感があるという住職に救いを求めたわけだ。ただし、彼が本物であるかどうかは分からない。自然科学の研究者として闇雲に信じるわけにはいかない。今までの経緯は全く話さず、ただ咳が出て胸が痛い、強い疲労感があるということだけを伝えた。あまり感じの良くない相談者である。
本尊の前で真言を唱えながら目を瞑っていた住職は私の方に向き直ると、おもむろに語り始めた。近頃、あなたの周りでお亡くなりになった方がいますね。この方は、無神論者です。現世しかないと思っていた人で、自分が死んだことを理解できずにおられます。なくなった後しばらく職場をウロウロしていたようですが、何とかしてくれそうなあなたに頼っておられます。ただ、この方だけの問題ではないですね。あなた方がいる建物の地下に空洞があります。炭鉱跡でしょう。そこの出水事故で亡くなった別の方々が影響しています。
ちょっと待ってくれ、確かにグラウンドの向こう側はボタ山である。まさかと思って調べてみたら、確かにそこは炭鉱の跡地だった。しかし何で、そんなことまで分かるのか?でも、聞いても無駄である。アルカイックスマイルがあるだけ。まあ、迷った人を救うのもあなたの功徳、一週間の間、般若心経を3回仏壇の前で唱えなさい。後はこちらで供養しておきます。それで終わった。10日ほどで咳も疲労感も消えた。あれは何だったのだろう。このご住職とは今でも仲良く付き合っている。云い方は悪いが、まさかの時に頼れる心強い友人といえる。でも、科学者としての意地もあって、入り浸ることはしていない。この距離感を保つのは結構難しい。まあ、これらの件については、私が科学者ではなく、使えるものは原理が分からなくても使うという技術者的立場にいるということだろう。