歴史生物学 植物色素に関する考察 6

  植物は細胞内に葉緑体を持つ。この酸素を発生する細胞小器官の存在故に、光合成を行っている植物細胞内の酸素濃度は非常に高い。また植物が光合成を行うに際して、受光したすべての光エネルギーが糖生産に使われるわけではない。強光下においては70%を超える光エネルギーが何らかの形で捨てられている。しかし、このエネルギー廃棄系から漏れ出すエネルギーが存在する。

  先にも述べたが、光化学系Ⅱにおいては励起されたクロロフィルが三重項酸素分子を一重項酸素分子へと励起する。この一重項酸素分子は反応性が高く、脂質の過酸化などを通して膜の破壊を引き起こす。光化学系Ⅰにおいては、励起クロロフィルが電荷分離を起こした後、電子伝達系に送られるはずの電子が酸素分子へと渡されると活性酸素の一種であるスーパーオキシドアニオンラジカルが、活性酸素防御系がうまく働いていない場合にはより反応性の高いヒドロキシラジカルも生成する。一重項酸素、スーパーオキシドアニオンラジカル、スーパーオキシドアニオンラジカルにSOD(スーパーオキシドディスムターゼ)と呼ばれる不均化酵素が働いて生成する過酸化水素、ヒドロキシラジカルなどは活性酸素と総称され、膜を破壊しタンパク質を変性させDNAを酸化する能力を持ち生命活動に悪影響を与える。

  従って、植物においてはこうした活性酸素分子種に対する消去系が高度に発達している。つまり、植物細胞がクロロプラストという光合成を行う細胞小器官を持つと言うことは、CO2を固定して糖を生産するというメリットとがあると同時に、細胞が光を受けると毒性の高い活性酸素が生成が起こるというデメリットとの微妙な平衡の上に成立していると考えるべきである。こうした観点から見た場合、減数分裂を伴う卵細胞と精細胞の作成と受精という生物にとって最も変異に弱い精妙な段階を遂行する場としての生殖細胞が、葉緑体を失うことは有利なことではなかったか。結果論ではあるが、葉緑体を失った生殖細胞を持つ植物の方が、有害な突然変異の影響を受けることなく子孫を残し続けてきたと理解して良いだろう。こう考えることによって、苔類や蘚類の胞子体、種子植物の花と呼ばれる器官が、葉緑体を失っている場合が多いことを体系的かつ合理的に説明できるのではないか。

  さて、アメリカの心理学者ドン・クリフトンが発表した人間関係の理論に“バケツ理論”というのがあるそうだ。「人は皆、大きな心のバケツをかかえている」というものだ、このバケツに人からの称賛、肯定、認知、関心の水をためれば、その人は幸せになる。人から受ける非難、批評、悪口、叱責、無視等の否定はバケツに穴を開けるという。そして、バケツの中の水を失うと不幸になるという理論である。さすが、プラグマティズムの国である。何となく以上に馬鹿馬鹿しくて殆どフォローしていないため、理論の正否についてというよりこれが理論であるかどうかさえ判断できない。水の入ったバケツなんて、持たされて立たされた記憶があるのみである。その場合、水は少ない方が好ましいし、入ってなければもっと良い。

  もう一つ「バケツ理論」と称せられるるモノがある。カール・ポパーが科学論における帰納法を批判して出してきた概念である。簡単に言えば、情報の海の中に、穴(感覚器官)の空いたバケツ(ヒト)がある。この穴を通して流れ込んだ情報が知識となるとする帰納法に対し、ポパーは主観としての問題意識を欠いた観察は存在せず、主観による問題意識を通して認識されたものが「開かれた」批判的討議を通して客観的な知識へと成長すると主張した。そして帰納法をバケツ理論と名付けて否定すると同時に、主観としての問題意識をサーチライトに例えた「サーチライト論」を提唱した。こちらのバケツなら、理解可能である。

  何で急にバケツかと不審に思われるかもしれないが、実は私も「バケツの穴理論」というモノを考えていた。ポパーが言うところのバケツはヒトである。バケツの穴とは感覚器官である。そして、このバケツが情報の海にある。ここまでは、私の考えとよく似ているが、ここからが違う。私の言うバケツの穴はきわめて小さい。そのため、流入する情報は穴の大きさで制限され、外界にある殆どの情報は認識できないという理論である。

  少し具体的に述べるとすれば、我々が聞くことのできる音は個人差があるとは言え20Hzから20,000Hz程度である。もはや私には、13,000Hzあたりからのモスキート音は聞こえない。従って、コンビニの前に私が座ったとして、モスキート音による嫌がらせは成立しない。20Hz以下の音および13,000Hz以上の音に対して、私はツンボであると言うことになる。いかに豊穣な世界がそこにあるにしても、私にとっては存在しない。

  同じく、我々が認識できる電磁波の範囲は、380 nmから750 nmの範囲である。380 nmより波長の短い電磁波は、紫外線、X線、ガンマ線と分類されており、750 nmより長波長の電磁波は赤外線、サブミリ波、ミリ波、センチ波、極超短波、超短波、短波、中波、長波、極超長波と分類されている。勿論この分類も恣意的であり、出典によって分類は異なる場合が存在するとはいえ、γ線の周波数は1020〜1023Hz(波長は10-12~10-14 m)、超長波の周波数は3 Hz以下(波長は108m)程度であろう。この範囲で我々が認識できるのは0.75 ×10-6 mから0.38×10-6 mというきわめて狭小な範囲に過ぎない。いま、この空間にはラジオ、テレビ、各種レーダーなどの電波が飛び交っている。電子レンジから漏れたマイクロ波も携帯電話から発信される極超短波も、それらの全てが、生身の我々にとっては存在しない。(本当は、これらの電波は有害であるのかもしれないが) ここにおいて、赤外線健康炬燵に赤色ランプをつけるという感覚詐欺的行為が成立する。「百聞は一見に如かず」と言うが、百見しても決して見えない情報の海がある。我々は、バケツにあいた微少な穴から漏れてくる情報をもとに、決して見えない外界を考えているに過ぎない。科学の進歩とは、我々が感知できない情報を、いろいろな機器を用いて可聴域の音と可視域の電磁波に変換することによって成し遂げられてきたとも言えるだろう。

     何が言いたいのか? 我々は、花を我々の目に見える色によって認識し、その色の意義を解釈してきた。この花は赤い、その花は黄色い、あの花は青いと。さらに、その色の組み合わせが、ヒトにとって心地よいモノであれば、これを綺麗、艶やか、華麗、可憐などと評するだけでなく、虫たちの行動にもその評価基準を押しつけ、説明してきたにすぎない。つまり、我々が感知できる可視域での情報のみに従って解釈してきたわけである。この判断態度は「バケツの穴から大海を覗く」が如き見識の狭さに立脚している。では、可視域での情報を越えた判断は可能か?

      可視域を越えた立場から虫たちの行動を解明した例としては、小原嘉朗氏らによるモンシロチョウの翅の紫外線反射率による雌雄の識別が良く知られている。花の紫外線写真から昆虫の行動を推測するような研究などは、結論の妥当性は別にしてそうした試みに当たると考えて良いだろう。では、ここで問題にしている花色についてどのような推論が可能か。

  フラボノイドに関してはその吸収する紫外線の波長がUV-Bの波長域に相当するため、植物を保護していると考えられているが、カロテノイド類やベタレイン系色素に関しては、それらの持つ可視域の強い吸収帯に幻惑されて、紫外域に関する議論は殆どなされていないようだ。例えばβ-カロテン、この化合物は450 nm付近にεmax (モル吸光係数)  = 140,000という極めて強い吸収を持つ。このピークを記録用紙に納めるように測定の感度と濃度を調節すると、280 nm付近の極大吸収は小さなピークにしか見えない。しかしながら、実際のモル吸光係数は52,500という大きな値になる。さらに二つのピークが非常にブロードなピークであるため、300-350 nm付近の最も吸収の低い部分でもそのモル吸光係数は30,000近い値になり、この値はフラボノイドに匹敵する値である。これはβ-カロテンだけの話ではなくζ-カロテン、ニューロスポレン、リコペンなど植物に広範に分布するカロテノイドにおいても同様なことが言える。

  後述するが、フラボノイドはカロテノイドに比べ生合成の開始時期は大きく遅れる化合物群で、陸上植物にしか分布しない。オゾン層が成立した後、植物の上陸以降にフラボノイドが紫外線に対する防御物質として働いたとする説に異論はないが、紫外線が透過する水際までの水生植物の進出を可能にしたのはカロテノイドであったに違いない。植物の上陸以前から、光合成のメリットと光毒性のデメリットの間で、植物のきわどい生存を支えてきたカロテノイドの存在意義に関しては、いかに強調してもしすぎることはないだろう。そして今ひとつの花色色素ベタレイン類においても、可視域での強い可視吸収帯とともに、320 nm前後にブロードな吸収帯が存在している。従って、この色素群も、多分ではあるが紫外線に対する防御物質としての機能を持つことは容易に推察できる。ただ、植物における分布が狭く生合成開始がかなり遅れる新しい化合物群であるため、植物の上陸時での貢献はないと言えるだろう。

  結論を書く。シアノバクテリアを内包した植物は酸素発生型の光合成能を獲得した。従って、光合成を行う細胞において酸素濃度は非常に高くなることは必然である。ところが、酸素の毒性は、光(紫外線を含む)の照射に伴い増大することも事実である。

  一方、生殖を担う細胞における酸素濃度の増大は、突然変異の可能性を高めるが故に可能な限り避けることが好ましい。従って、花という生殖を担保する器官においては、葉緑体を失うという進化は非常に有益であったと考えて良い。そのような突然変異は、捨てられることなく、現生の植物にまで保持され続けたのであろう。さらに、葉緑体を失った器官において、太陽光照射に伴う紫外線傷害の軽減・除去ができれば、遺伝子変異の可能性をさらに低下させることが可能となる。つまり、葉緑体を失った生殖器官が、障害を起こす紫外線の波長域に吸収を持つカロテノイドやフラボノイドを含有することは、彼らの生き残りに際して極めて好ましいことは云うまでもあるまい。

  ヒトは紫外域での現象をみる能力を欠如していたが故に、UV吸収を持つ化合物群の可視域での振る舞いに幻惑されて、赤だ、黄色だ、青だという議論を続けてきたのであろう。結論は一つ、穴の開いたバケツであるヒトは、穴を通らない紫外線に気付くことなく、穴を通った可視域の光のみを見て、的外れの議論をしていたのである。私は、こうした人々の説明行動に対して「バケツの穴理論」であると揶揄したのである。

  「毎日、五月晴れの下、山畑での作業をしているのだが、湧き上がる入道雲のような照葉樹の新芽が実にきれいである。濃い緑ではなく、どの木の新芽も緑は薄い。ふと考えた。そういえば、植物の新芽、芽立ちの部分は葉緑体の少ないものが多いと。考えて見れば、植物の新芽、まだ生長を続けている柔らかい部分では、細胞分裂が盛んに行われている。こうした部分において活性酸素の濃度が高ければ、細胞機能に損傷を受けるだけでなく、突原変異の可能性も上がるに違いない。植物が、淡緑色の新芽のだけでなく、赤い新芽(アカメカシワやカエデの仲間など)、黄色い新芽(黄金マサキ)などを持つ理由について、先の結論を適用すれば、その理由がシンプル且つ合理的に説明できるではないか。」

 「」で括った部分は5月に書いた。いまの季節には一寸合わない。しかし、こうした問題意識を持って周囲を見渡せば、剪定を追えた後に出てきた新芽も色が薄い。ここには、近いうちに適切な写真をつける予定である。

歴史生物学 生合成系に見る時間の残滓 1

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