TCA回路への異論 5,5

 まず図10をよく見て欲しい。ピルビン酸からオギザロ酢酸の4位に取り込まれたC13からなる二酸化炭素は、TCA回路を回るにつれα-ケトグルタル酸の1位のカルボキシル基となり、コハク酸へと脱炭酸される際にCO2として再放出されることになる。

図10 ピルビン酸に取り込まれた二酸化炭素は2-Oxoglutarate(α-ケトグルタル酸)からコハク酸への段階で系外に放出される

 ところが、図の内側に示したように農業生物資源研究所のサイトに掲載されている図によれば、ピルビン酸に取り込まれたC13はα-ケトグルタル酸の1位と5位に分布し、TCA回路を流れるように描いてある。ラベルされた5位のカルボキシル基はコハク酸の段階で位置情報を失い、リンゴ酸からオギザロ酢酸の二つのカルボキシル基に再配分されたあと、アスパラギン酸へ、あるいはホスホエノールピルビン酸を通ってセリンやグリシンへ、ピルビン酸を経由してアラニンへと変換されることになっている。

図-9 大気中の二酸化炭素をカイコが繭糸を構成するアミノ酸の中へ取り込む代謝回路のモデル図

 どこか、何かがおかしいのである。問題はアセチルCoAのオギザロ酢酸への付加反応を触媒する酵素が面選択制を持つかどうか、今ひとつの問題はクエン酸からシスアコニット酸への脱水反応を触媒する酵素がプロキラルな位置にある二つのメチレン基を区別できるかどうかの問題である。前回書いたように、最初のアセチルCoAのオギザロ酢酸の2位のカルボニル基への付加反応はsi面側から選択的に起こることが知られている《Biochemistry, 29, 2213-2219(1990)》。

 この二つの反応は酵素反応における立体化学的制御という視座から見るととても面白いし、うまく伝えることが出来れば教育的にも有効な題材になる。図11のアセトン、酸素原子を下に置き少しだけ回転させた形で書いている。このカルボニル炭素をNADHに由来する水素化物イオンが攻撃する場合、アセトンの二つのメチル基と酸素原子が作る平面の右側から攻撃する場合と(A系路)と左側から攻撃する場合(B系路)が存在する。生成物はいずれも2-プロパノ−ルであり、2-プロパノールには不斉中心は存在しないのでA系路を通ろうとB系路を通ろうと生成物は同じものである。こういう場合、アセトンにはプロキラリティ−が存在しないという表現をする。

図11 オギザロ酢酸に対するアセチルCoAアニオンの付加反応

 ところが、アセチルCoAがオギザロ酢酸へ付加反応を行いクエン酸を与える反応においては、そんなに簡単には行かないのである。右側の上部に書いた二つのオギザロ酢酸、一応鏡像体になるように描いているが、この分子には不斉炭素は存在しないので(I)と(II)は同じものである。しかしながら、この二つの式のカルボニル炭素に結合する原子につきCahn-Ingold-Prelogの順位則に従って順番を付けると、左側の図においては右回りになり左側の図においては右回りとなってしまう。このようにある面から見ると結合する原子群の順位が右回りになる場合、その面をre-面、反対になる場合をsi-面と定義する。そこでだが、次に描いた式(II’)は立体化学の表記法から余り褒められたものではないが、カルボニル基の炭素原子と酸素原子の結合軸を中心にして60度程度向こう向きに回転させた図であるとしてみて欲しい。この分子のカルボニル基に対して、アセチルCoAのアニオンが付加するのだが、この反応はsi-面側から起こる。

 そうするとクエン酸(III)が得られるのだが、困ったことがある。いや別に困るわけではないのだが、クエン酸は不斉炭素を持たないのである。従って、元からあるカルボキシメチル基と、アセチルCoAに由来するカルボキシメチル基は通常化学的には区別できない。(こういって良いかどうか一寸不安です。カルボキシメチレン基という言い方があるのだろうか?)そのため農業生物資源研究所のサイトの図が成立しそうに思えるのだが、自然界は少々意地悪である。その話に行く前に、カーン・インゴルド・プレローグ順位則において、同位体については質量数の大きいものが小さいものより順位が高い。現実の話をすれば、ピルビン酸へ取り込まれた13CO2はオギザロ酢酸の4位に入るのだが、そのほとんどは12CO2に由来する炭素原子である。つまりここで生成するクエン酸は(III)は(IV)の混合物であるということになる。そして、12CO2に由来するカルボキシル基を持つクエン酸(IV)においては不斉炭素は存在しないが、13CO2に由来する由来するカルボキシル基を持つクエン酸(III)の3位の炭素は不斉炭素となり、その立体配置はRであるということになる。尤も、同位体効果という現象があるとはいえ、この13Cを持つカルボキシル基が、次の脱水反応の起こる位置に影響することはないと考えてよいだろう。

 そこでだが、不斉中心を持たないクエン酸 (IV) において、二つのカルボキシメチル基を(A)(B)と区別して考えることにする。何をしようとしているかといえばプロキラリティ−の概念を導入しようとしているわけである。プロキラリティ−にも色々な種類があるのだが、ここで述べるのはsp3混成軌道を持つ炭素上の 4個の置換基が、CX2YZ というように、2つの同じ置換基 X と、異なる 2つの置換基 Y、Z からなる場合、その炭素は光学活性中心ではない。しかし、X が新しい別の置換基 W に置き換われば CWXYZ の形となり光学活性中心となる。そこでCX2YZ 上にある 2個の X について、それらをどう区別するかが問題となるわけである。

 大したことではない。2個の置換基 X のうちどちらかをもう一個のXよりも高いものと仮定したあと CIP則を適用し、優先順位を決める。仮の優先順位に基づき、RS表記法にしたがって中心炭素のキラリティが R か S かを決めるのだが、仮のキラリティーがR体だった場合は、そのときに優先させた X を pro-R の置換基と、S体だった場合はpro-S の置換基と称する。クエン酸においては二つのカルボキシメチル基がこのXに当たるわけである。そうしてpro-Rpro-Sに対応するカルボキシメチル基を決めると図11も右下のようになる。つまり、オギザロ酢酸の4位にあったカルボキシル基はpro-Rのカルボキシメチル基となりアセチルCoAに由来するカルボキシル基はpro-Sのカルボキシメチル基になっているのである。これと反対の配置の化合物を作る酵素もあるのはあるのだが、嫌気性の微生物に存在しているもので、カイコには存在しない。

 pro-Sとかpro-Rとか鬱陶しいな、それがどうしたという声が聞こえてきそうなのだが、ここは重要なステップとなる。アキラルなクエン酸からcis-アコニット酸への変換は、トランス脱離反応で脱水が起こり pro-R側のカルボキシメチル基側に二重結合が形成される《Proc. Natl. Acad. Sci., 93, 13699-13703 (1996)》。そこではたと困ってしまうのである。pro-R側の側鎖はオギザロ酢酸の4位のカルボキシル基を含む。そのカルボキシル基のαβ位に2重結合が導入されるのであれば、逆向きの水付加に続く基質レベルでの酸化、さらに続いて起こる2度の脱炭酸反応によって、オギザロ酢酸由来のカルボキシル基は二酸化炭素として放出されてしまうではないか。つまりせっかく固定された13Cはこの段階で失われてしまうことを意味している。

 実は脱水反応がトランス脱離で起こる、続く反対方向での水の付加反応とこの時生成する2位の水酸基と3位の炭素の立体化学、2位の水酸基の基質レベルでの酸化に伴う2位の炭素とこれに続く脱炭酸の伴う3位の炭素の不斉の消失、さらにもう一段階、αケト酸の脱炭酸と、興味深い反応が続くのだが、余りこの手の話を続けても私だけでなく読者も疲れるだけだと思うので、興味のある方は自分で文献をあさって欲しい。

 つまりここまでの議論で何が言いたいかといえば、、ピルビン酸と13CO2との反応で形成されたオギザロ酢酸からTCA回路を回して、アラニン、セリン、グリシン、アスパラギン酸を姓合成するとした場合、これらのアミノ酸のカルボキシル基に、13Cが含まれるとする論証には無理があるのではないかというのが私の意見である。しかしながら、13CNMRのデータは、これらのアミノ酸のに13Cが含まれていることを示している。どう考えればこの矛盾を解決できるのだろうか。

 久しぶりに立体化学的に反応を考えたのだが、昔は構造式を見ると頭の中で立体構造が浮かび、これを回転させたり反転させたり自由にできていた。ところが今回、ChemDrawで描こうと思ったら、一度紙に描いてからでないと間違うのである。しばらくやっていなかったからなのか老いたのが原因なのか分からない。一日中草刈りと草取りしかやっていないのだから、仕方がないだろう。例年なら少し奥山に移動しているはずのホトトギスが降るように鳴いている。日中の温度は35℃を超え目がくらむような毎日だが、その中で聞くクマゼミとアブラゼミは3℃くらい気温を上げそうだ。7時近くになると遠くでヒグラシが鳴き始める。これはそれなりに風情があっていいものだ。

 とはいえ世情は囂しい。ヒグラシではなくその日暮らしの人が増えているようだ。何か出来ないかと考えてはいるが、個人で出来ることは高がしれている。新聞は暑苦しいスポーツ新聞に変身した。いや、スポーツ新聞の方がまともな記事を書いている。一日中、土に触れているので精神状態は安定しているが、町中に住んでいたら毎日山にでも行っていただろう。ハーモニカをいくつかバインドして縦向きにしたようはマンションには決して適応できない私がいるわけだ。何とかして、ヒグラシがカネカネカネと悲しく鳴かずに済む社会をと願っている。

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