- 2020.08.23 Sunday
- 02:21
世の中、コロナ狂想曲の真っただ中で、多くの人がどうして良いのか分からない状況である。私もここまでミスリードが多いと、どのニュースが、どの意見が正しいのか判断に迷うことが多い。どう考えれば良いのかについては書きかけの記事があるのでそちらに回すことにして、コロナ騒ぎによる大学教育の崩壊の可能性について書いておく。
大学教育と書いたが、小・中学校における不規則な休校、それに伴う夏休みの短縮、オリンピックに伴う祝祭日の恣意的な移動などは、子供たちの規則的日常を破壊している。子供たちには少なくとも規則正しい日常が必要だと考える。そうした落ち着いた規則正しい日常の上に、入学式、各学年で恒例の年中行事、夏休み、冬休み、修学旅行、そして卒業式などが一里塚のように配置してあるわけだ。基盤にあるのは規則正しい日常生活である。ところが、それが壊されてしまい、彼等はいつ何があるのか全く予測できない世界に放り込まれてしまった。学校での学習内容より、不規則な日常に対応する事で精一杯の状況になってはいないだろうか。
大学で教鞭を執っている何人かの人と話したのだが、オンライン講義に関する話が興味深かった。新型コロナウイルス感染症の蔓延に伴いオンライン講義が導入されたわけだが、この導入自体についてはかなりスムーズにいったという人が多かった。近年、講義のデータベース化が進んでいたことが基盤となったようである。ただ、問題がなかったわけではなさそうだ。殆どの人が云うには、今まで90分で行っていた授業をベースにパワーポイントを作り、このパワーポイントについて説明を入れると、45分つまり半分の時間にしかならない。彼等は言う、講義にこんなに無駄が多かったとは思わなかった。
講義には確かに無駄と思える時間が存在する。出席を取る時間などはその典型と言えなくもない。近頃、この時間をなくすためにICカード方式を採用するところが増えてきたようだ。マスプロの授業であれば致し方ないと思わないでもないが、50~60人程度までの講義であれば、出席を取ることのメリットもある。名前を呼んで顔を見る、返事の声の大きさとか座っている位置、どのグループに属しているのか、今日はこいつ元気がないななど、その後の指導に有益な情報が得られるからである。講義が終わった後、おい○○君、今日は元気がなかったけどどうかしたの、とか今日は座る位置が変わってたね、などと声をかけておくと、その後の反応が劇的に変わることが多かった。オンライン講義ではこうした人間関係の構築はまずできないだろう。教育というのは講義の内容だけで行うものではない。人対人の人間関係が基礎にあって成立するものである。そうした意味において、現在の大学生は非常に可哀想な状況にあるのではないか。
いま一つの大きな問題は、実験・実習科目をどうするかという問題である。実験は実験することを通してしか教育できないだろう。一つ一つの操作を動画で見せられて、それで終わりとはならない。実際に操作を行うとき、その記憶は脳だけに残るのではない。筋肉が覚える操作がある、その意識化できない筋肉の記憶を植え付けるのが実験である。カーブを投げる、シュートを投げる、プロのピッチャーの動画を見て同じように投げられるかという問題と同じである。マイクロピペットを用いたピペッティング、金属の切削など、今では機械任せにできる場合が増えたとは言え、実際にものを持たせて訓練しないと絶対に上手くならない。今の教育においてこの筋肉が覚える記憶についての理解と配慮が余りにもなさ過ぎる。
実習科目についても同じである。実験と実習とどこが違うかあまり考えたことはないのだが、例えば、解剖学実習を経験していない医者なんて想像もできない。メスの切れ味や組織に入るメスの感覚など、映像化も数値化もできないクオリア(質感)を経験させるだけでなく、献体となった人の尊厳を意識し、さらに感謝と敬意を実感してもらう実習であると考えている。世の中には絶対にオンラインでは教育できないものがあるのである。
半分で済んじゃった講義の残りの半分は、講義をする人の姿と声のトーン、板書する時間、板書のされた文字、途中で入る雑談や叱責、隣の学生の呼吸音や寝息など、それら全てが講義内容に対するタグであり講義の持つクオリアである。この半分は価値がないどころか、ひょっとすると講義内容以上の重さを持つのかもしれない。こんなことを考える人間は時代遅れである、文科省の教育指導方針に合わない人間である、きっとそう言われると思う。しかし、恩師を思い出すとき、講義内容ではなく黒板の前に立つ先生の姿と声そして生き方が浮かんでくる。