虫害

9月が終わるというのに、日中の気温は33度位ある。気象庁の報道する気温は、風通しの良い芝生の上、白く塗った百葉箱内の日影の気温であるから、この温度を信じて外出すると酷い目に遭う事が多い。とにかく今年は暑かった。

こんな暑い年は、害虫による食害が酷い。先ずカメムシ、色々な種類のカメムシが存在し、ほぼ全ての果菜類、果樹類、葉菜類のみならずイネをも食害して斑点米と呼ばれる等級の低い米の原因となる。我が農園でも甘柿が酷い被害を受けた。まともに食べられる果実は1本の木に1個あるかどうか分からないような状況である。渋柿がどうなっているかは未だ見ていない。ナスも8月後半から傷だらけである。とても売り物にはならない。もっとも、傷の部分を除いて自家消費という事になったため、夢にでるほど食べる事ができた。

ゴーヤも同様である。8月の半ば過ぎからワタヘリクロノメイガ(ウリノメイガ)が繁殖した後、ハスモントヨトウとカメムシによる食害で今季終了である。枝豆として食べようと植えた黒大豆もハスモントヨトウのために葉脈だけになってしまった。減反政策の続きで3年に一度水田での大豆栽培が行われているのだが、この大豆もハスモンヨトウのせいで葉っぱが食べ尽くされている。例年通りのスケジュールで農薬散布は行われたのだが、発生を抑えきれなかったと聞いた。来年は国産大豆も不足するかもしれないな。

梨とブドウは袋掛け栽培なので、さほど大きな被害は聞こえてこない。とはいえ、サツマイモやサトイモの葉はハスモンヨトウに食われて、茶色に変色している。農薬を上手く使っている人の畑はさほどでもないが、減農薬を目指して丁寧に育てている畑の方が被害が多そうである。我が農園のサツマイモは、草取りを全くしていなかっため、イネ科の雑草に覆われてハスモンヨトウがイモの存在に気付かなかったらしく、今の所食害はほとんどない。とはいえ、ようやく葉っぱに陽が当たり始めた状況だからちゃんとしたイモがはいるかどうかは別の問題である。

食害を受けた畑に見切りをつけ、秋作の野菜を植え始めている。ダイコン、カブ、キャベツ、白菜などがそうであるのだが、発芽したばかりの苗を、ヨトウムシが次々と食べていく。それは当然の話である。ヨトウムシが一杯いる畑から前作の野菜を取り除き、耕した畑に種まきをするのだから、食を奪われた彼らが次に生えてくる野菜を食べるのは当たり前であろう。不必要な農薬は使わないようにしているが、今年はベイト剤を使うしかないかなと考え始めている。

それはそうと、庭に植えていた桑の木に野蚕の幼虫がいた。飛ぶ能力を失っていない原種の蚕である。大きさからして最終令の幼虫らしく、突いてもほとんど動かない。サナギになる直前の眠(みん)の状態らしい。とすれば明日か明後日には繭を作っているだろう。

 

カテゴリー: 未分類 | 虫害 はコメントを受け付けていません

ペントースリン酸経路への異論・・・7

 歳を重ねると物事の処理速度が大きく低下するにもかかわらず、処理すべき事柄が減るわけではない。年寄りが忙しい忙しいと言うわりにはノロノロしているように見える理由であろう。これは歳をとってみないとわからない。これに痴呆が被ってくると事はさらに悲惨な事になってくるに違いない。何でこんなことを書くかと言えば、私自身が明らかな老化の足音を聴く年代になったからである。

 前回のアップからどれくらい経ったか記憶にないが、こうして再び書き始めようとすると何をどう議論しようとしていたのか、記憶は薄れてしまいはなはだ心許ない。読者の年齢は知る術もないが、書いている本人の記憶がそうなのだから読者が以前の記事を記憶していると期待する方が図々しいだろう。従って、記憶がしっかりしているであろう若者には不要かもしれないが、何故にペントースリン酸経路に対して異論を唱える事になったか、手短に述べる事から始める事にする。

 ことの初めは解糖系におけるブドウ糖の位置づけについての疑問であった。解糖系に対し一つの疑問を抱いた事が発端である。解糖系は大腸菌からヒトまでどころではなく、原核生物(古細菌を含む)から真核生物にわたるほとんどの生物に広く分布する普遍的な代謝系と理解されている。その点について大きな疑問はないのだが、出発物質がブドウ糖であることに納得が行かなかった。解糖系の起源を考える場合、現在の常識に従えばブドウ糖がアプリオリに存在する前提で書かれていると考えざるを得ないが、その場合アプリオリに存在していたブドウ糖の起源は何処あったのか。ホルムアルデヒドが粘土鉱物の表面でアルドール縮合を続ければ、D-ブドウ糖が生成する可能性がない事もないが、だからといってD-ブドウ糖が特異的に集積する確率は絶望的に低いと考える。さらに、解糖系らしき系は持つものの、その系の中にブドウ糖を含まない生物も少なからず散見される。それらをどのように説明すればいいのか?

 私なりの答えは「歴史生物学・解糖系についての考察1〜5」に書いているので、その部分を参照して欲しい。系の起源の問題として捉えれば、解糖系に寄り添っている糖新生系の方がより古くより根源的であると言う結論にならざるを得ない。そう考えると、言い過ぎである事は自覚しているが、グルコースは解糖系からはみ出した盲腸であるとする考えさえ成立する。

 だが、世の中では解糖系こそが生物に存在する多くの代謝系のなかで非常に重要な経路であり、中心経路と呼ばれる立ち位置にあるとする考え方が主流である。その解糖系の意義付けが変わると、解糖系に連接する経路の存在意義に変化が生じるかもしれないと云う問題意識を持ってTCA回路を眺めてみた。

 そういう意識のもとにTCA回路を眺めると、解糖系の場合と同じように逆向きに反応が進行する嫌気的カルボン酸サイクルの存在とその存在意義がいま一つ曖昧なまま残置されている事に気付いた。さらに、現在行われているTCAサイクルの意義付けにおいては、α–ケトグルタル酸からのアミノ酸・タンパク質代謝に言及しているとは言え、TCA回路に続く電子伝達系と組み合わせてエネルギー獲得に重きを置く説明が優位な状況にある。

 歴史生物学的視座から考える場合、ある系路の原初的な形はどのようなものであったかを問題とする。勿論、過去の生物そのものがもっていた回路をそのまま調べるわけには行かないが、過去の回路を現在も維持していそうな生物種における代謝系から予想できない事はない。 さて、アセチルCoAがオギザロ酢酸と縮合してクエン酸となるのだが、回路の出発点をオギザロ酢酸におきクエン酸を通って α–ケトグルタル酸に至る右回りの系路(東廻り系路)とリンゴ酸を通ってα–ケトグルタル酸に至る左回りの系路(西廻り系路)に分けてみた。そうすると結構面白い結果が得られる。 例えば、Methanothermococcus やMethanocaldococcus属細菌は西廻りの系路を持つが東廻りの系路は持たない。

 この西廻り系路を持つ生物は古細菌だけではない。真性細菌であるChlamydia、Chlamydophil、BifidobacteriumPrevotella、Desulfotomaculumも、同じようにオギザロ酢酸からα-ケトグルタル酸までの西廻りの代謝を行い東廻りの系路は持たない。

 一方、TCA回路の西廻りの系を持たず東廻りの系のみを持つ生物も種々存在する。Eubacterium、Roseburia、Coprococcus、 Ruminococcus 属細菌などである。

 この現実を基礎に考えれば、TCA回路を回路と命名することの不合理さとともに、系の意義をエネルギー(ATP)生産系とする説明は現実を正しく反映しているとは思えない。幾分強引な推論だが、いわゆる解糖系と還元的カルボン酸サイクルに加えて、図3-24と図3-25の系について考えれば良さそうだ。これらの4種の回路と・非回路を持つそれぞれの生物群において、それぞれの系は同じ目的で駆動されていると考えて良いだろう。幾つかの異なるしかしよく似た代謝系が同じ目的を持って駆動している場合、まず各集団に共通するものを探すのが鉄則である。この場合、4つの系で共通している化合物は α-ケトグルタル酸である。

 ではこの α-ケトグルタル酸、生物の中でどのような意義を持つのか。多くの方がご存知の通り、α-ケトグルタル酸からはアミノ酸代謝が出発する。α-ケトグルタル酸の α-位のカルボニル基にアミノ基転移が起こりL-グルタミン酸、L-グルタミン酸の γ 位のカルボキシル基がアミド化されてL-グルタミンがつくられた後、これらが種々の α-ケト酸にアミノ基を転移して、多様なアミノ酸類の生合成が起こる。アミノ酸生合成は、生物がタンパク質をつくる前段階の欠くべからざる反応であり、「その出発物質であるL-グルタミンとL-グルタミンの原料である α-ケトグルタル酸を供給するのがTCA(非)回路の意義である」とするのが適切な判断だと思う。

 こんなブログを読んでいる方であれば、α-ケトグルタル酸から誘導されたL-グルタミン酸とL-グルタミンの存在意義は、先に述べたアミノ酸生合成の出発点であるだけではない。両化合物は、プリン代謝につながりDNAとRNAの原料であるアデニン、グアニンの生合成につながるのみならず、ピルビン酸の脱炭酸段階で必要なチアミンリン酸生合成へと伸びている。それだけではない。両化合物はピリミジン環生合成の原料でもありDNAとRNAの原料であるチミン、ウラシル、シトシンへと伸びるの生合成を可能にしている。

 つまり、α-ケトグルタル酸はアミノ酸生合成とタンパク質生合成の中核に位置する化合物であると同時に、プリン塩基とピリミジン塩基生合成担う共通の原料でもある。これらの事実を重ね合わせてこの系の意義を求めるとすれば、第一義的には α-ケトグルタル酸の供給という役割を見なければならない。酸化的リン酸化系を持つミトコンドリアの祖先となる好気性細菌が原真核生物と共生した際に、東廻りのTCA回路が酸化的リン酸化と共役して多量のATPの生産を始めたのは、大気中の酸素濃度が上昇した後の話であろう。

 ことの詳細については、歴史生物学 TCA回路への異論 1〜9に書いている。

     そこで目下の問題は、ペントースリン酸経路についての解釈である。実は何人かの大学教授の方々にペントースリン酸経路の意義について尋ねたたことがあるのだ、上手く説明する人に会った事がない。解糖系の副路でNADPH2の生合成系路だったよねという教科書的な答えが帰ってきた。あれは複雑で分かり難いとか授業をやり難い系路だと云う本音のような愚痴のような答えもあった。同感である。私も不惑の頃まで、この部分の講義をする時は、前夜から予習をしていても落ち着かなかった。

 ペントースリン酸経路に対して、糖代謝の根幹を担う解糖系と糖新生系に纏わりつく藤の木みたいに感じていた。天皇家に巻き付いた藤原一族といえば、感覚的に分かり易いかもしれない。先に述べたように、この解糖系・糖新生系の存在解釈に変更が生じたとすれば、この寄生植物のようなペントースリン酸経路の存在意義も影響を受けるに違いない。そう思って書いてきたのが、ペントースリン酸経路への異論1〜6である。そこに多分間違いないと思える答えは書いている。本人の中では結論が出ているのだが、文書の形を整えるためには、いま少しの考察を続ける必要が残っている。それは理解しているのだが、そこに手間ひまかけるのは精神的に辛いものがある。

 論文を執筆する場合、結果は見えていると思えるにもかかわらず、いくつかの穴埋めのために補充実験が必要になる場合がある。レフェリーは必ずその穴を指摘して書き直しを命じてくる。この補充実験が無駄に思えて何度取り下げた事か。結果は見えているので次の実験に取り掛かりたいのに、何で時間の無駄とも思える穴埋のための補充実験に戻らなければならないのかと、我が侭である事は分かりながらも逃避したわけだ。まあ実験計画の不備というのが現実であり、私の責任であるから、レフェリーに罪はない。穴埋め実験を学生に強制できるのが教授の特権だと云う人もいるくらいだから、誰にでも発生する事案であろう。

  先にも述べたように全種類の生物のペントースリン酸経路を順に検討するのはコストパフォーマンスが悪いので、次回からは興味深い系路をもつ生物のみを取り上げていく事にする。

 

カテゴリー: ペントースリン酸経路への異論, 未分類 | ペントースリン酸経路への異論・・・7 はコメントを受け付けていません

ガソリンは危険です

雀(カラ)が群れを解き、ギンヨウアカシアの黄色い花が目立つようになった。春です。モンンシロチョウやモンキチョウなど定番のチョウに混じってテングチョウやヒオドシチョウ、たまにシータテハが日溜まりで暖を取っている。カワラヒワの甘ったるい囀りが孟宗竹の頂きから聞こえてくる。世の中は春である。

 朝から種まきをしようと、購入しておいたナス、トウガラシ、エゴマ、カボチャ、シロウリなどを用意していたら、横に薪を割ったとき捨てた残渣があった。これを燃やしながら種まきをしようと思った。バーナーで火をつけようとしたが上手く燃えない。小屋にガソリンの混じった軽油があった事を思いだした。300ml程のガラス瓶に小分けして、これをかけて燃やそうとしたのが大間違いで5本の指の松明を作ってしまった。まあ手を振り回して消すのは消したのだが、思い掛けないガソリン火傷、これ思ったより何倍が酷いです。冷水で冷やしながら5時間が経つが、まだ水から出すとヒリヒリと痛みが酷い。

 皆さん、ガソリン火傷には気をつけましょう。グーグル検索をしても治療法はヒットしません。とにかく冷やしています。今夜ねむれるかな?京都アニメーション事件の被害者の方々、熱かったでしょうね。心から哀悼の意を表します。中指、薬指、小指の全周と各指の下の3つの膨らみ、さらに月丘までが痛んでいます。水膨れができるのかな。ジャガイモの植え付けとタマネギの草取りを済ませておいて良かったと胸をなで下ろしています。

午後11時、有り難い事にようやく痛みが引いてきた。良かった、これで今夜は寝られそうだ。知り合いの坊さんが、大難は小難に、小難は無難になどという講話をされる。何ともない時は無難は何になるんだろう、何難なのかなあ〜などと茶化して聴いているのだが、今回は大難が中難で納まった気分である。仏壇の前で感謝感謝である。

とはいえ、近頃仏壇の前で何方を拝めば良いのかが次第に分からなくなってきた。私、真言宗の檀家だと自認している。とすれば大日如来が本尊という事になる。昔の私は浄土宗の門徒だった。浄土宗の本尊は阿弥陀如来である。もっと昔、我が家は浄土真宗の門徒であった。この場合も阿弥陀如来が本尊である。この宗派の変遷にはそれなりの理由があるのだが、それは横に置くとして構造主義的に見るととても興味深い。

先ず本尊とされる如来がいて、この本尊と衆生とを繋ぐ位置に宗祖と呼ばれる人が位置する。真言宗においてはそれが空海であり浄土宗においては法然、浄土真宗においては親鸞という事になる。名前を呼び捨てにしてごめんなさい、法然と親鸞には上人という接尾語があるのだが、空海には適切な接尾語がない。弘法大師という呼び方があるにはあるが、ここに弘法大師と書くと何となく座りが悪い。従って、各人を呼び捨てにした。ただ、各宗派ともに本尊、宗祖、門徒あるいは檀家あるいは信徒という構造になっている。周りを見回すと、日蓮宗であろうと禅宗であろうとこの構造を持つ。面白い事にキリスト教であっても、イスラム教であってもヒンズー教であっても同じ構造を持つ。つまり、信仰する神あるいは仏がいて、神と民衆を繋ぐ宗祖がいて、その下に民衆が存在するという構造は同じだという事である。

古希を過ぎてからそんな事に気付いてどうすると言われそうだが、自ら気付いた時の喜びは格別である。手を火傷して、大した事にならなかった事を仏壇の前に座って感謝し、そこでレビー・ストロースの構造主義を思い出す。佛教の各宗派の構造は共通している、いや世界の大宗教も同じ構造だと気付いてしまった訳である。

考えてみれば、人間が作る他の組織であって同じ構造になっている。いままで生化学における代謝系の解釈において構造主義とはいってもソシュールが唱えた言語論を利用してきた。レビー・ストロースの構造主義は数学的色合いが強いためちょと敬遠してきた経緯がある。でも本棚のどこかに「悲しき熱帯」と「野生の思考」が残っている筈だ。読み直してみよう。

 

 

 

カテゴリー: 雑念雑話 | ガソリンは危険です はコメントを受け付けていません

地震恐怖症

昨日というより今日である、福島沖でかなり大きめの地震があった。とは言え。耐震基準がきっちり決められている現在の日本であれば、あの程度の地震では大きな被害は出ない。「その程度の常識」はある。だが、日頃の会話の中で地震が怖いねという私の発言が重なると、あなたは地震恐怖症かと疑われる場合がなくもない。しかし、多くの人が持つ「その程度の常識」がいつでも通用すると考えているあなた方に対して危機感を感じているのである。私から見れば、あなた方が地震不感症であるように見える。

南海トラフで発生すると予想されている大地震、津波が何分後に来るとか、津波の高さが何メートルになるとか、何万人死ぬとかいう事とは別次元の怖さがあることに気付いていない人がほとんどである。私は大津波が問題ではない、何万人死のうと大した問題ではないといっているわけではない。それらは極めて大きな問題である。しかし、もっと厳しいに違いない大きなリスクがある。令和6年に内閣府が出した南海トラフ地震での被害予測は250兆円から300兆円なのだが、読んでみたら余りに楽観的過ぎるように感じた。

https://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/taisaku_wg/pdf/3_sanko.pdf

2018年に土木学会も南海トラフでの巨大地震の被害予想を出しているのだが、大まかな値として1500兆円以上になると試算している。1500兆円というお金がどれほどのものか、冷静に考えると背筋が寒くなる。昨年の日本のGDPは 600兆円弱である事を考えれば、全日本人が2年半の間飲まず食わずで働いた時の値に相当する。さらにこの地震、日本で大きな割合のGDPを稼ぎだしている関東・静岡・名古屋から大阪に至る工業地帯を壊滅に近い状況に追い込むと予想されている。幸運にも津波で生き残った人が働こうと思っても、家も、生活のインフラも、移動手段も、働く場所も失われているのみならず、生存者に必要な水と食糧さえ供給されないだろう。因みに阪神淡路大震災の被害額が約10兆円、東日本大震災の被害額は18~25兆円を考慮すれば、1500兆円という被害が如何に大きなものであるか分かってもらえるかもしれない。

さらに首都直下型地震が南海トラフ地震と連動する可能性が囁かれている。この地震による地震の被害予想は、先の土木学会の試算によれば800兆円を超える。1500兆円、800兆円という値は土木学会の試算であるため、幾分かの水増しがあるかもしれない事を考慮しても、尋常ではない被害となる事は否定できない。万一、この二つが連動した場合、南九州から関東、東北に至る太平洋側が被災する事になる。多分被災者は7,000万人を超えるだろう。

被災者への支援、これは期待できない。被災地区に住む7千万人の人々に必要な支援を日本海側の人々が担えるのかと考えれば甚だ心もとない。はっきり言えば不可能である。鉄道が機能を失い、道路は寸断されているるであろう。空港も機能不全となるであろうし、能登地震で見られたように港湾施設も破壊された状況で、どうやって支援物資を運ぶのか。そもそも支援物資を作っていたのが被災地域なのである。

外国からの援助?、被災した直後であれば人道的立場からという美名の下にいくらかの支援が期待できるかもしれないが、1,000兆円を超える巨大な損害の前ではスズメの涙にもならない。少し時間が経つと復興利権を狙った災害便乗型資本主義(ショックドクトリン)の草刈り場になると予想できる。日本人は冷酷な外国資本の下で酷使される原住民の位置づけになるだろう。

1.000兆円を超える膨大な損害を抱えただけでなく富の生産基盤を失った国家に、食糧を売ってくれる国、原油を売ってくれる国があるだろうか。食糧を買っても物流が停止している、原油を買っても精製施設が動いていない。火力発電所も被災しているため電気もない。もし万一幸運にも、原子力発電所が壊れていないとしても、送電線は寸断されているに違いない。東北大震災の時、被害は大きかったが関東から大阪に至る工業地帯が生き残っていたため、円の暴落は起こらなかったが今回は円の暴落が起こるだろう。我が国の国際的購買力が地に落ちるのである。その際にアメリカという国家が日本の持つメリカ国債の売却を認めるとは思えない。日本国民は塗炭の苦しみを味わう事になると思う。

岸田政権が進めている移民政策、彼らにも言い分がある事は幾分認めるとしても、大地震の発生と同時に国内にいる移民のグループが何らかの形で騒動を起こす事は否定できない。埼玉県川口市の状況をみればわかるように、大災害とともに移民政策のデメリットが噴出し、警察力では対応できないほどの社会不安が発生するだろう。

こうした未来から逃れるためには、国家として貴金属の備蓄を充実させる事、備蓄を含めた食糧政策を実施する事、防災事業を速やかに実施する事、長期的には工業生産基地の分散を行う事、日本海側が安全とは言わないが日本海側への投資を増やしバランスの取れた国土整備を行う事などを早急に実施すべきと考えているが、今の政府にそれを望むのは難しい。本来の意味での国土強靭化政策は必要なのである。

何でこんなことを書くのか、南海トラフ地震の前兆となるかもしれないスロースリップが宮崎県沖で発生しているだけでなく、日向灘でかなり強い地震が何回か発生しているからである。政府が官僚だけ連れて岡山に逃げる用意をするのではなく、国土全体を考えた政策を実行する事を願っている。事は国民に一週間分の水と食糧の備蓄を求めるような次元の話ではないのである。

ではお前に何が出来るという質問とも批判ともつかない問いを発する人がいる。至極残念だが、基本的には何も出来ない。南海トラフ地震においては、当地でも震度5~6程度の揺れが予想されている。私自身が被災者になりかねない。もし家が壊れずに残った場合、ジャガイモやサツマイモを栽培して数人分程度の食糧なら生産できると思うが、それを配送するための物流が動いている保証はない。それ以上に地震の発生時期が植え付けの時期の合致する保証もない。米が作れれば良いのだが、トラクターや管理機など農業用機械の燃料が入手できる保証はない。種もみの入手さえ難しいだろう。現在の農業は石油がなければ成立しないのである。食糧不足で困る人々の前に耕作放棄地が広がるという皮肉な風景が見られる可能性が高い。

ただ一つ供給できるかもしれないものは、長寿命の野菜の種かな。カボチャやダイコンなどの種については、数年分の備蓄を持っている。万一の場合、欲しい人達に配布するつもりである。ただ、現在の野菜類はF1種である場合がほとんどであるため、継続的に栽培が可能かどうかはやってみないと分からない。

 

 

カテゴリー: 雑念雑話 | 地震恐怖症 はコメントを受け付けていません

心を読まれてる

新規投稿が遅れに遅れているせいでいくつかの連絡が来ていたのだが、その中の一人の指摘が図星だった。図星だった人の二つの指摘、一つは「ペントースリン酸経路に拘わり過ぎているのではないか、このままバクテリアと古細菌について、従来の形で話を進めるのは労多く話は繰り返しになりなかなか先に進まないだろう。特徴的な何種かの生物についての議論で矛を収めろ。あんたの言いたい事は色々な経路を見直して代謝系を観る新たな視点を提唱したいのだろう。時間潰しはやめなさい。」

もう一つはブログの提示の方法についてだった。「あのね、40歳前から考え続けて来た事を書いているのだろう。もう35年以上考え続けた物だよな。考え続けた結果は本人には自明のロジックであっても読者にとっては初めてのものだろう。読者は常識を外れた仮説を突然突きつけられるわけだ。とすれば、過去に投稿したものを、適切な間隔で再表示すべきではないか。」さらに、「もう少し分かり易い形で書いたほうが理解を得られやすい、言い方を変えれば学問的正確さを必要以上に追わないほうが良い場合もあるだろう。」

いやいやそういう視点はなかったな。書きながら肩が凝っていたのは、力み過ぎていたのかもしれない。さらに、「最後に一言、今の水準を維持しながら週一回とかいう頻度でこのブログを続ける才能はお前にはもうないよ。原報へのアクセスもなかなかし難くなっているだろう。」その通りである。図星である。脱帽である。素直に反省して指摘に従おうと思った。

まあそれはそうとして、今年は荒れてますね。何でも荒れています。最も気になっているのは地震かな。能登での地震がまだ混乱の最中にあるのに、次の地震が起きそうな気がしています。巷間ささやかれているのは、首都直下型、南海トラフ、相模トラフ、千葉から仙台に連なる東北の東岸、北海道から千島列島沿いで起こるであろう巨大地震なのだが、私は別の地震も有り得ると考えている。と書いて三日が経つのだが、嫌な所で地震が起こった。小笠原での大きなヤツではない。京都での地震である。この地震を単なる内陸部で起こった地震と考えるか、それとも別の要因によるものと考えるか。ここで判断が分かれるだろう。

 1986年、三原山の噴火が起こった時にその噴火の経緯を冷静に説明していた木村政昭博士をよく覚えている。この木村氏についてはその後も注目していたのだが、彼が提唱していた日本列島断層(線)が今でも記憶に残っている。(下記参照)

 http://kimuramasaaki.sakura.ne.jp/site2/2016/05/22/1389/

 彼の学説は現在の社会で力を持つ人々にとって好ましくないらしく、常に世間から無視され続けている。日本列島を貫く大断層である中央構造線は定義によって異なるが、鹿児島県の川内原発の沖合いあたりから熊本地震を起こした布田川・日奈久断層帯を西端とし、大分付近から四国、紀伊半島を横断した後、長野県の諏訪湖までの部分と、フォッサマグナで地表トレースが難しいとはいえ埼玉県岩槻辺りを通り鹿島灘に抜ける大断層である。この定義に関しては異論はない。ただ木村博士は上記の中央構造線が京都南部付近で分岐して琵琶湖の東岸を経由し、福井県・岐阜県から能登半島の根本付近から日本海に抜け東北と北海道の西岸に沿って利尻島の西海上まで繋がる大断層があると提唱したわけだ。この仮説は先に書いたように、社会的には完全に黙殺された状況にある。とはいえこの仮説、過去に起こった地震の震源を調べてみると、捨て去るには惜しい仮説である気がしているというわけである。

 能登半島で起きた地震の余震分布を見た時、新潟沖あるいは若狭湾沿いでの地震発生の可能性は捨てきれない。歴史的にもかなり大きな地震が起こっている。先日発生した京都での地震をもってその前兆とするなどという短絡的な事を言うつもりはないが、頭の隅に一寸だけ入れておく必要はあると感じている。奥歯に物が挟まっているような書き方をしたが、そういう訳です、ハイ。

 

 

カテゴリー: 雑念雑話 | 心を読まれてる はコメントを受け付けていません